知ったかぶりの話し

知ってるつもりの思い込みの感覚に、非常識な横やりを入れて覧る試みです

「気」を探して見えない事を知る話

 自然界には、「気」と言う視覚では見えないけれど、生命のエネルギーが流れているというのは古来から言われていたことです。まやかし的な妄想や思い込み、幻覚のような考え方まで、様々な方法で見えない物を説明したり、悪用して利益を得たりしています。誰も確認出来ないことですから、まやかしでも証明出来ない事でも、まかり通ることもあります。磁力のある不思議な石は、鉄製品が出来ることで明確にされますが、理由が解明されるのは、ずっと後になります。キュリー夫人放射線も、1900年代になります。電気は、1600年に、琥珀をすりあわせると出る静電気の性質にあると分かってから300年後に、電気として利用することが出来るようになります。家庭に来ている電気や電波を、利用して、照明から熱源だけで無く、音や映像のシグナル(情報)そして、ラジオやテレビ・携帯電話などと目には見えないのに当然のように利用する社会になりました。つまり、現代の私たちは、自然に発生したものでは無い、人工的に作られた微弱な電波や電磁波に囲まれている生活をしています。そして、見えない物なのに不思議を感じるよりも、当然のこととして受け入れています。電気も電磁波も見えませんから、本当は危険なのかさえの判断もせずに受け入れています。今でも、キュリー夫人が研究で使用したノートは防護服なしでは危険なほど、放射線を出していますが、キューリー夫人には危険であるとは分かりませんでした。ですから今使用している電化製品が何年後かに、実は危険な電波だったとか電磁波だったなんて言われるかも知れないのです。人間は、視覚的に確認出来ないことや現状の知識で理解できないことに出会った時、あやしげなこととして排除したり、遠ざけたり、時には過剰な反応をして悲劇を招いたりしましたが、取り敢えず危機管理してきました。しかし、今日では、便利であれば見えない物に対しての疑いを持たないだけでなく、専門家と云われる人に全権委任して、大丈夫と信じています。ですから、生命のエネルギーとして何千年も考えられてきた「気」が見つかったと言われても何の驚きもなく受け入れてしまうのかも知れません。

 人間は、視力を得てから、見えない物に対して畏敬と恐れ、信奉と不安、安全と危険という両極端な考え方をしてきました。それでも、顕微鏡や望遠鏡で視覚的に確認しようと宇宙や微生物・ウィルスなどを通じて、理解しようとしてきました。しかし、今日では、宇宙線を初めとして全く見ることが出来ない世界に入り込みました。人間が見える可視光線の隣にある、赤外線は、熱線とも呼ばれる電磁波です。ですから、私たちの体も含めて、熱を持つものはすべて赤外線を出しています。サーモグラフィなどは、人間が出す赤外線の熱を色のちがいに変えて見せているのですが、赤外線も同時に見える眼鏡が作られたとき、風景がどの様に変わるか考えて見てください。ゆらゆらと出てくる湯気のような熱線ばかりが人混みでもあるのです。さらに、同じ隣の紫外線は強いエネルギーを持った光線ですからもし見える眼鏡が作られたなら、雨のように傘を差すだけでは避けきれず、全身防御服をきた人間ばかりが歩き回っているかも知れません。人間が長く、生命エネルギーとしての「気」を見つけようと様々な方法を工夫してきたことが、目では見えない様々なものを発見してきましたが、見えない物は人間のために存在するのではなく、自然の中の一部ですから、人間だけに利益をもたらすと言う事は考えられません。でも、今は探し見つけ利用することばかりに、大きな賞などを与え奨励しています。しかし、見えない物が、見えたところで、人間としての幸せが来るとは限りません。赤外線や紫外線が見えて、風景が一変しても、生きることは変わらず、「気」が、見えても、幸福という心の問題は解決しないと思うのです。何故なら、人間の心は、見えることがないからです。見えない物が見えるようになってきた一方で、見えない物を理解する力は、低下していると思うのです。