知ったかぶりの話し

知ってるつもりの思い込みの感覚に、非常識な横やりを入れて覧る試みです

事故の隣の日常性の話

 自分の経験ですが、総勢100人ほどで、絶壁の上にある海岸の公園で、炊事遠足をするために、出かけました。近くまで来たときに血だらけでウェットスーツを着たダイバーが道路の真ん中にいて、車を止められました。話を聞くと20メートルもある絶壁の下の海岸で、台風後の高波で遭難したしたと言います。まだ何人もいると告げられました。慌てて本人を病院へ他の車で運ぶと共に警察に通報しました。そして、私たちは、状況も分からないままに、断崖絶壁の上にある公園について計画通りに、カレー作りを始めて頂きました。直後には、パトカーも来ましたし、消防、消防団と30人以上の方がやってきましたから、私たち素人の救助活動など要請もされませんでした。それでも気になって崖の上に立って下の海をみると、海の上には、何人かが何かにつかまって浮いていました。海岸の岩場にも人はいましたが、テレビのドラマにでも出てくるような波が打ち寄せていて、見えなくなったり見えたりしていますが、海岸の岩場には、救助者はいないようでした。おそるおそる消防団の人に聞いてみると、波が荒れているだけに見えるけれど、台風後の海の中はうねりがあって、簡単には近づけないとの事でした。海に馴れている地元の人でさえ近づけないと慎重な対応をしているときに、海の中のことまで考えもつかない、私たちに出来ることなど有りません。やがて、上空にはヘリコプターが数機旋回し、漁船が何隻もやってきました。でも、一向に近づかないのです。再び聞いてみると、荒れた海では、漁船が安易に近づくと人を轢いてしまうような事故になるんだそうです。だから慎重に作業しているとの事でした。私たちは、ずっと高い安全地帯で、親指ほどにしか見えないウェットスーツの人達の生死が掛かって必死で助けを求めているのに、ただ見つめています。それも、何時間もです。もし自分が海の中なら、崖の上にいる人に、「見世物じゃ無い、ロープもってこい」と言うかも知れません。そばまで来ている漁船に、「早くしろ、もう限界だ」と叫ぶかも知れません。ヘリコプターに「梯子を下ろせ」と叫んでいたかも知れません。崖の上の私たちには、海の大きな音で漁船のエンジン音さえ聞こえないのですから、遭難した人達が何を言っているのかさえ知ることは出来ませんでした。その後、漁船や救助の方に助けられましたが、新聞では数人が死亡しました。崖のそばまで近寄らなければ見えない海には遭難者がいます。崖に近付かないように指示されて見えない崖の上の公園では、海の状況は全く知らない大勢の人間が、計画通りに、カレーを作り談笑しています。海の状況を知らせたなら、止めようという事も有ったかも知れません。でも、止めたとしても私たちに出来ることは何も無かったのです。せいぜいが、野次馬になって見ているだけなのです。同様に、交通事故があったと推測できるような現場に遭遇しても、警察車両があれば、事故だと言いながら車は流れのままに進んでいきます。私たちの生活では、日常性と事故は常に隣り合わせで、突然日常から切り離された被災者は慌て困惑しているのに、ほんの少しずれていただけで日常が継続されている世界があるのです。大きな震災や災害のように、えぐり取られるように日常を失う危険は、誰にでも突然やってきます。だからといって日常生活の中で、完全な防護体制などとても組めません。そして、被災しなければ、被災を知っても、日常生活は継続されていくのです。

 情報を得る方法が格段に早く、視覚的になりました。映像も臨場感と言う事で言えば被災の現場にいるようなすごさで迫るようになりました。その一方で、自分の生活からは遠くて、被災を身近な事として感じられる感覚が鈍感になってきていると思うのです。情報を大量に得ながらも、テレビの画像を見ながら大変だとは感じつつも、何も出来ないままに、日常生活に追われるように時間が過ぎていきます。情報が過酷であっても大量の画像に驚きはしながら、鈍感になっていきます。安全地帯にいる限り、事故が見えても日常生活の中に埋没してしまいます。本当は、日常生活を放り投げだして考えなければならないような情報なのかもしれないのに、それにさえ気がつかないほど鈍感になってきています。日常生活が出来なくなった人は大変だと言いながら、自分は日常生活を継続しているのです。我が身に降りかからなければ、日常生活を淡々と守り続けることしか出来ないのかなと思うのです。