知ったかぶりの話し

知ってるつもりの思い込みの感覚に、非常識な横やりを入れて覧る試みです

一子相伝の技能などなくなっても良いの話

    日本の技能の継承方法には、一子相伝という方法があります。簡単には、伝承すべき事を、親から子などの特定者に絞り奥義や神髄は、たった一人にしか伝承しないという方法で、兄弟姉妹がいても、その中の一人の子どもにしか教えないという方法です。現代でも、金平糖のどこそこは、一子相伝のすごい技能で高価だと言われることもあります。一子相伝なので作っているところはお見せできませんと言われると、鶴の千羽織りのようにとても格調高くすばらしい物の様に思えますが、考えて見ると単なる利益確保の一手段でしか有りません。一子相伝などと言われるものには、各種の武術・武道や、公家家職に由来する有職故実・礼式の類や、華道、茶道などの家元制度のものや、能楽、邦楽、日本舞踊、などの芸事、さらに技能としての、和菓子だったり、刀剣だったり、酒や漬け物などの食品だったりと様々な分野に見られます。考えて見れば、一子相伝として原材料やその分量などは、確実に伝承できるでしょうが、日本の伝統技能には、型よりも感の方が重要な部分があります。つまり、公開されても真似が出来ない技能が多くあります。芸能などは公開されていますし秘技なんて事よりは、その芸に到達することが簡単にはできないだけで無く、その背景の精神性が真似事では出来ないと言うことが多いのです。一子相伝として隠さなければ、真似されてしまうと言う危惧が有るものは、特許権の無い時代には、一子相伝という形でしか守ることが出来なかったと考えられます。中でも、食品の場合は、現在のような化学分析による成分分析が出来ない時代には、他者に真似られない、類似品が発売されないためには、正統性の由来と権威を守る都合の良い言い方法だったとも言えます。しかし、一子相伝の基本は、分家やのれん分けも許さない、単一純系主義でもありますから、作られる量も決まっています。大量に製造するには、どうしても多数の人間が必要です。家族総出であっても、一族総出であっても、生産は限定され、結局は一部の人の限定された範囲を超えることは出来ないのです。そして、一度消滅すれば復活することは出来ません。つまり、文化の継承という点では、無くなってしまうとみんなが困るというものは、一子相伝などと言う方法では守れないのです。そして、守らなければならないような技能は、個人伝承では無く、社会伝承として守られてきたのです。消滅する伝承は郷愁や過去に有ったという記録として残ることもあるでしょうが、社会としての損失とは言えないものなのです。秋田の稲庭うどんは、家族だけで製造する一子相伝の秘法でしたが、稲庭うどんの製造技術を公開し地域の人を職人として育て、地域振興としての特産品にしたのだそうです。ウナギのたれなどでも、継ぎ足しの秘伝のたれなどと言いますが、無くなったとしても特定の人は悲しむでしょうがだからといって社会的な影響はありません。

 守りたいものは、社会という機能に乗せなければ、守られていきません。職人気質や昔気質などと周りが誉めあげて、どんどん衰退している仕事が沢山あります。古代からの歴史を見ると、政治史が中心のように思われますが、政治を変えてきたのは、技能であり文化でもあります。ところが、政治に隠れて消滅した技能や文化は、再現したくても再現できないぐらいに資料もないし、現物も残ってはいないのです。つまり、みんなのために必要なものだけで無く、文化として技能として後世に伝えていかなければならないものは、個人や家では無く、社会だと言う事です。特に現代は急速に、継承者の老齢化が進んでいて、残しておきたい技能や文化さえもが、消滅する時に来ています。継承者問題以上に、そんな技能や文化があったことさえも知られないままに、静かな退場と消滅を迎えています。そんな中で、麹菌を製造している老舗が、十数件有った同業者がもう数件しか無くなりましたと言いながら、一子相伝製法なので公開はしませんと言っている姿を見て、文化や技能は個人の所有物では無く社会のものと認識できないなら、絶えても仕方の無いものの一つだと感じました。