知ったかぶりの話し

知ってるつもりの思い込みの感覚に、非常識な横やりを入れて覧る試みです

意外と残酷な学校のグループ分けの話

 学校では、普通に行っていることで、考えて見ると案外残酷な事だと思うことがあります。しかし、長い時間で作り上げられた慣習には、教師だけでなく生徒も当然だと思っていますから、変わることはありません。その中で一番残酷だと思われるのが、選別とその過程です。学級の構成員は、生徒が知らないところで決定されますから、従うしかないと言う事で諦めることが出来ます。しかし、クラスの中での、グループ分けや班分けは、学級という公開された中で行われます。子ども達は、グループメンバーを率直に喜んだり、厭がったりと、感情をあらわにし、人気者は引く手あまたとなりますが、取り残される子どもが必ず出てくるのです。つまり、その場は、学級という中の、公開人物評価の場所になってしまうのです。いつも、先に選ばれる子は笑顔で喜び、引き取り手がない子はいつまでも晒されるのです。おどけた男の子は辛辣にあいついらないと言い出したりまでします。本当に、グループ分けや班活動が必要なのかという論議は起きず、強制的にクラスは細分化した組織活動の一翼として構成されるのです。その事を、学校運営上は、主体性や自主性の活動のためであり、教師が全て主導するのではない、自治を学ぶ、クラス運営上も、学習効果が期待されているともいいます。一つの集団を作れば、必ずグループは出来ます。そして、仲良しは集まり、グループに属することが出来ない人も出てきます。集団活動は社会の前提ですから、その下部組織としての小集団に所属していくというのは、社会性としても当然で、この事が出来ない人を一匹狼などと言う事もあります。残酷なのは、取り残されたり、厭がられたり、ええーと言われてしまう子どもの精神に対してです。一人で良いと言うことが許されない環境では、誰かに気に入られなければ複数での活動は出来ないのです。二人づつ手を繋ぎなさいと言われて、手を繋ぐ相手がいない子どものが抱く、晒されてしまう悲しさは、心に打たれた杭のように抜けないで仕舞われていきます。子ども達は、実は案外残酷なことを平気で出来ます。平気で相手を傷つけることも出来ます。それは、人としての心を育てる途中だからです。世界の中では少年兵として戦争に悪用するのも子どもが発達途上だから出来るのです。

 人は、人から選ばれると言うことに、過剰に反応します。ですから、人気者になれると言うことは大変な喜びともなります。その一方、排除されたり、無視されたり、するような評価を多数の目の前で行われることには、一人でいる事以上に辛いと感じます。人は、決して孤独だけで絶望へと向かいません。多数の中で晒し者になると言うことの方が強い絶望感に襲われます。誰かに、選んで貰わなければならないという危機感は、嫌な相手であっても従属した関係を日常的にしなければならないという卑屈な対応が迫られてしまうのです。過去で言う親分子分のような、非行グループで言う「バシリ」と言われるような従属でも良いから仲間として繋がっていなければならないという状態へ追い込んでいくのです。どこかに繋がっていないと仲間はずれになると言う不安・恐怖の訓練は、こうした学校の中で行われるのです。学校には、一人でも良いんだという環境はありません。グループ行動は強制なのです。そして、グループに負担が掛かりそうな人は、嫌われ、厭がられ、陰湿な攻撃にあうのです。単独行動でも良いという行事もありません。校外学習もグループ活動で嫌なら休むしかないのです。選ばれないことの寂しさや不安、公開されるクラスでの他者評価、取り残される恥ずかしさ、そして、最後には憐れみとしての受け入れ表明。人を陥れるには十分なセレモニーが学校では、何の疑問もなく延々と続いているのです。一人一人を大切にするという個別化による対応はされていないのです。