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知ったかぶりの話し

知ってるつもりの思い込みの感覚に、非常識な横やりを入れて覧る試みです

きれい事と言われる話

 それは、あなたの理想論、夢物語でしょ、と言われるときは、認めるけれど、実現不可能なこととして、やんわりと否定されるときに使われます。明らかに反対の時は「きれい事を言うんじゃない」が使われて、「かっこつけつけてんじゃないよ」「嘘つくなよ」ぐらいの強さで否定するときに言われます。上辺は綺麗でも、実現なんか出来ない事を主張する人に、完全否定するように、言います。確かに、装飾して綺麗にすることは何でも出来ます。中でも、コミュニケーションの言葉なんて、装飾の金メッキみたいになところがあって、剥がれても剥がれても上塗りが出来て本当の事なんかどこにあるのか分からないなんてことも起きます。それは、個人生活より、放送という手段で実際に大々的に行われています。視覚と聴覚に心地よい発信をしてそれが作り物である事を忘れさせます。現実の生活では流れていない音楽を映像と絡めるなどの装飾や敢えて作り出した起伏のある映像を映して、それは事実であるかのように強調します。それは、嘘ではないけれど極一部で有ると言うことさえも知らされません。どこかの部分だけを拡大強調して放送することで、全部がそうであるような表現を巧みに行います。障害者を取り上げた放送番組は、常に綺麗に飾られています。そして、視聴者は着飾り、化粧した障害者の生活を覗き見し、満足し、上目目線で障害者も頑張っているんだ、努力しているんだから応援すべきだ程度に、納得するのです。では、何故困難で困っている実態や実像を放送しないかというと、障害者生活実態は淡々と日々を暮らしておりテレビ受けするようなドラマチックな課題の連続ではないだけでなく、触れて欲しくない事項に抵触すると、人権や差別や個人のプライバシーと言った事で、非難され、批判されることとなるからです。障害者が見世物だった時代は遠い過去ではありません。プロレスに小人として、障害の方が余興のようにテレビに出ていたのは昭和という時代です。見世物小屋と言われる興業で、その肉体が晒し者となっていたのも昭和の時代までありました。人権すら認められなかった時代を経て今日尚真の人権を求めて活動している人々からするなら放送という媒体がいつ逆戻りしないか常に検証し適正な内容となる様に指摘することは、重要な役割だと言えます。しかし、今日痴呆老人の介護現場が取材されるときも、自閉症の方が取材されるときも、そんなにうまく撮影出来るのかなと思えるような、映像ありきのドラマ仕立てになっていることを見るなら、過剰包装の危惧は消えません。なぜなら、そこには、「障害」を理解しょうでは無く、「障害者」を理解しょうという違いがあるからです。つまり、啓発と言って教える、理解させるという教師のような制作者が、無知である視聴者に伝わるように、そして、視聴者は、障害者を理解してあげることが人として必要な事と上位者の責任のような組み立てとしているからです。教師のように語り、生徒の視聴者は、哀れみを持って障害者も同じ人間なのだと理解してあげなければならないと作るのです。そして、それは、みんなに迷惑を掛けない、社会を困らせない努力を本人だってしていることを知って欲しいと言うものでしか無いのです。障害の理解は、ドラマ仕立てにしなくても出来ます。例えば、胃がんを説明するのに、胃がんの人を出演させる必要はありません。風邪を説明するのに、風邪の患者を出演させても、風邪の症状は一人一人違うとみんなが理解していますから、出演された患者は風邪症状の一例に過ぎないと理解出来ます。しかし、障害者について日常的な知識は知れ渡っているわけではありませんから、その事例がみんなそうなのかと思わせてしまう作りなのです。

 さらし者と言う事がありました。障害者がスケープゴードのために、晒し者とされていた時代がありました。その時代からすれば、今は夢物語かも知れません。しかし、現実の社会は、きれい事を並べる行政や社会の中で、障害者の生活は、社会に迷惑を掛けない範囲に限定されているのです。言葉は、何度も何十にも装飾が可能で、上辺を塗り固めることが出来ます。でも、生活の実態は装飾が出来ません。すぐに剥がれてしまいます。きれい事にされてしまわない、装飾されていない生活で、障害を考えないと、夢物語のままになってしまうと思うのです。