知ったかぶりの話し

知ってるつもりの思い込みの感覚に、非常識な横やりを入れて覧る試みです

迷惑と自主規制させる手口の障害の話

 障害に関しては、二つの考え方で支援は組み立てられています。一つは障害者本人が困っていることを如何にサポートして生活が組み立てられるかと言うことと、一つは周囲が困っていることを如何にさせないかです。つまり、本人が社会に適合するなら不便なことは支援しますが、社会に迷惑を及ぼすならば、迷惑を掛けない人になるか、迷惑を掛けないような環境にいて頂きますと言う事です。迷惑という言葉は実に有効に使われます。例えば公共の福祉であれ、人権であれ、人に迷惑を掛けないことと条件がついても誰も文句は言いません。道徳や、ルールにマナー、エチケットに至まで、その根拠には、人に迷惑を掛けないことが、重要で、社会人は人に迷惑を掛けないことと言っても極論とは言われません。そして、迷惑を掛けることは日常の対人関係では、犯罪でもないのに、広範囲に行動規制や制限があってもやむを得ないこととされて、人に迷惑を掛ける人の人権は制限されることも致し方ないともされます。そして、この考え方は、障害があろうとなかろうと公平で平等な基準なんだと説明され誰もが納得させられてしまいます。でも、迷惑って何と確認すると、実は、迷惑という言葉が、感情的で基準のないその場の雰囲気による多数派の論理で組み立てられてしまう危険な言葉と言う事に気がつきます。例えば、混んでいるバスに乳母車で乗ってくると、周りの乗客みんなが、迷惑だと感じそれを表出すると迷惑な行為になってしまうのです。保育園を作ろうとすると子どもの声がうるさいと近隣の方の多数が迷惑だと反対すると迷惑施設になってしまうのです。そんなことはどうでもいいと思える人達が周囲にいるとそれは迷惑な行為ではなくなってしまうのです。つまり、当事者を知っていたり、状況を把握する人がいて迷惑ではないとするなら、迷惑ではなく、自分が不利益を受けそうだと不安な人がいれば迷惑な行為になってしまう危険があるのです。そして、「迷惑」という言葉がもっと巧みなことは、周囲が迷惑だと圧力を掛けなくても、障害がある人からの自主規制が行われるように見えない力が働くことです。通勤電車のような混雑が予想される時間には、車いすで乗って欲しくないとなるし、知的障害者の不明な行動には、支援者がついていて貰わないと困るとなるのです。障害も、個性も認めます。しかし、迷惑を掛けないで暮らしましょう。迷惑が掛かりそうなら自分でよく考えましょう。こうしなさいとは言えませんが、自分で決めて外出を控えたり、興奮しないような対応を考える事は大事ですと、自主規制するような要請を暗示します。結果として、支援者は障害者に自主規制を押しつける係ともなるのです。自主規制は、ずるい排除のやり方です。何が迷惑かという論議は確実にされずに、こんなことではみんなに迷惑が掛かるのでと憶測や推測だけででも事前に自主規制をさせることが出来ます。それは、障害に対してこうした自主規制で色々な排除がなされてきた歴史が長いのです。

 障害では、本人が困っていることより、周囲が困っていることが施策になり、対応になっています。迷惑にならないように隔離収容することから始まって、周囲の人が困らないようにするために各種の施設に集めて対応しています。あからさまな排除は行いませんが、排除の根拠に「他の人に迷惑が掛かりますので」という言葉で、制限や規制を掛けることは繰り返し行われています。そして、支援者もまた「他の人に迷惑が掛からないように」と事前に自主規制を繰り返しています。でも、迷惑とは何かが明確にされたことはありません。障害があると言う事での差別はしないと言う人でも、他人に迷惑を掛ける行為は非難します。ところが、周囲が困っている障害と言うのは、周囲が作り上げた後天的な事が多いのです。障害者自身が、周囲の困る人になりたいと思ったことなど絶対にないのです。障害ある人が、自分を守ろうとすることが、結果として周囲と対立してしまったことばかりなのです。障害があることは、不安感は強く、恐怖感も常に持っています。どうしても自己防衛が過剰に反応することはあるのです。それでも、理解されずに抑制されたり、規制されたりする中で、自分を守ろうと必死になっています。それを「迷惑な行為」として排除しようとする事が続いているのです。障害があると言う事と、迷惑を掛けると言うことは別のことなのに、障害があるから迷惑を掛けていると勘違いされたままの障害観が今も制限を掛けているのです。