知ったかぶりの話し

知ってるつもりの思い込みの感覚に、非常識な横やりを入れて覧る試みです

観光なんて当てにならないの話

    町おこしといって、観光事業を試みると言う事は沢山あります。特産品をつくって販売すると言う事もあります。でも、テレビで有名になって人が押し寄せても、長続きはせず、やがて廃れてしまうところばかりです。町おこしが必要だと言う町は、町の活性化と言うことを言いますが、その中身を問うと、結局は、人頼りで、沢山の人が来てお金を落とすか、沢山の人が住みさえすれば活性化すると考えているとしか思えません。つまり町は、人によって出来ているのですから、人がいなくなると言うことは、町では無くなると言う事の裏返しです。しかし、人はみんな気まぐれです。気まぐれな人の気持ちに一時的な刺激を与えても繰り返しの中毒症状には持ち込めませんから、次ぎ次ぎに手を上げたところへ移って行ってしまいます。よくよく活性化とは何かを確認すると、如何にして収入を得るかと言う事になっていることに気づきます。すると、古い言葉ですが、「お金で幸せが買えるのか」という問いと同じで「お金で町は買えるのか」そして、「買った町は」住む人を幸せに出来るのかということになります。人々がその土地に何故住み着いたかは歴史を辿れば分かりますが、ご先祖様は、古里を捨ててきたのです。何らかの事情があって、ご先祖様は、古里で暮らせないから、そこへ移り住んできたのです。そこに住まざるを得ない事由があったから、そこで生活の糧を得る方法を探し、生活を支えてきたのです。それが農業だったとしても、商業だったとしても、その子孫にとって、生活の糧が得られない土地となったのなら原点に復帰するしかないと思うのです。その土地が持っている生活の糧を得ることの出来る力が、現代には適応しないのなら、どれだけ人間が投資しても張りぼてのように何度やっても崩れてしまうと思うのです。

 人が来ることをあてにして、人の為にしがみついても小さなところから自然に帰っていくと思うのです。だから、返すための撤収の仕方を工夫する方法へ変えていくことも選択肢だと思うのです。延命という事のために、気まぐれな人の気持ちに投資してたぐり寄せても、延々と支えてくれるものではありません。気休めに良いねと言っても、いねは他でも言っている言葉です。古くからの観光地が、浮き沈みを繰り返しながら観光という事でその土地にしがみついても、ときが来れば壊滅することもあるのです。何故なら、観光するというゆとりさえも無い時代が来ないとは言えないからです。 町おこしと言えば、観光、売り物、商売の話ですが、明治時代のように、武士の商法的なことしか出来ない場合も多く見られます。生活とは何かという問いが必要だと思うのです。都会に暮らしても、田舎に暮らしても、その土地で無ければならないのは、個人の思いであって、住む人が幸せと感じる物だけがあれば良いのです。観光なんて当てにならない方法に期待して、投資しても住む幸せを見つけることは出来ないと思うのです。