知ったかぶりの話し

知ってるつもりの思い込みの感覚に、非常識な横やりを入れて覧る試みです

志無き福祉でも日は暮れるの話

 人は、志だけで行動しません。生活するという条件との兼ね合いで行動を考えます。現代であれば、どれだけのお金がどの様な形で得られるかと言う事は、重要です。志としての行動が社会で行われれば、事業と考えられますから、人間は、事業と生活のバランスが大切になります。簡単に考えると、事業に拠って多額の収入があれば、生活は容易ですが、事業に拠る収入が無ければ生活は困難です。他者の事業に参加する方法を採れば、就労という形態になり、賃金が良ければ生活は容易ですが、賃金が低ければ生活は困難です。ですから、どんな事業に関わるかの判断は、事業が継続的に収益性の高いものの方が、より有利である事は間違いありません。そして、人間は、より有利な選択を希望する事が普通に行われています。一方、事業の収益性は低くいけれど、事業に対するお思い入れから選択する人もいます。この場合には、人並みの生活が出来るならと自分の事業に対する思い入れを大事にする人達です。この様な人達の中に、福祉従事者がいます。福祉は、お金が掛かっても、お金を生み出さない活動ですから、出来るだけ少額で、多数を、短い期間で終了出来るに越したことはないという、経済効率化な考える人からすると歓迎されない事業でもあります。ですから、福祉の現場は、常時人手不足と人材不足に悩まされています。例えば障がいを持つ人、例えばお年寄り、が、訓練をしたからと言って機械を修理するように変わるわけではありません。障害者を活用するなどと言われことがありますが、障害があっても働けると言う事と障害者でも働いて貰うと言う事は全く発想が違うのです。同様に、年寄りでも働けると言う事と、年寄りでも働いて貰うは根底の考え方が違うのです。つまり、事業と生活の有利選択で、より有利な選択を目指す考え方の人には、少しでも不利な条件を減少させる手段に過ぎませんが、事業としての思い入れを選択する人は、障害者なり年寄りの人生を支援しようとしています。考え方として例えば保育。経済効率から考える人は、複数の子どもの子守を一人で請け負うことで、複数の労働力が生まれると考えます。多数の子どもを、少ない費用で、短期間に手が掛からなくなれば良いとしか考えません。子どもは、一緒に遊んでいるだけで成長するし、保育は幼児教育では無いのだから、学習は学校へ行ってからでも良いんだ、そんなに教育がしたければ幼稚園に行けば良いと言い出します。しかし、現場の保育士は、自ら発達していく時期だからこそ志のある働きかけが無ければならないと考えています。しかし、そこを強く言うと、母親がやるべきで、保育士は母親が働く間子守で良いんだ無駄なことはするなと現場を牽制するような経営者・管理者でも務まるのです。同様に、成人の福祉施設は、学校の様な期限の無い現場ですから、職員が存在すれば、どんな障害があろうと一日を終わらせることが出来ます。1日という時間の経過が大事で、中身は評価されません。だから、現場職員の志ある働きかけも、日々の営みも、評価されずに一日が無事終わればいいというような経営者・管理者でも務まる職場でもあるのです。

 有利選択として福祉を考える人と、志として福祉を考える人の間には、大きな隔たりがあります。ところが、現実の福祉では、有利選択として福祉を考える人が、経営者だったり管理者だったりすることが見られるのです。つまり、福祉施設は、現場経験皆無でも、資格なんて無くても、理事長 にも施設長にもなれるのです。障害者の手を握るのが嫌いでも理事長にも施設長にも成れる程度の仕組みなのです。そして、現場など嫌いな有利選択者が、志を持って現場を選択した人の上位に立って指示・命令することが出来てしまうのです。現場の困難を理解が出来ずに、現場の後方支援がなんたるかを考えずに、後ろから矢を射るような理事長や施設長が現実に居るのです。現場の現実が、建て前だけでは動かなくても、念仏の様にどこかで聞いてきた建て前だけを並べて、支援現場に関与すること無く、上位から物申すのです。支援よりも経営としての有利さを選択できる人間は、志持つ現場の人間は疎ましく面倒な存在でしかありません。黙って1日が問題なく終われば良いのにうるさいとしか感じられないのです。知識も博識もある人はいくらでもいます、しかし、実務が出来る人は限られています。何故なら実務は、相応の経験と体験が必須で、理論と現実の境界や適正処理に精通してい無ければならないからです。しかし、志無き理事長や施設長の施設でも、現場の志ある職員が支えていれば日は暮れるのです。