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知ったかぶりの話し

知ってるつもりの思い込みの感覚に、非常識な横やりを入れて覧る試みです

稲作が多数を幸福にしたわけでは無いの話

 縄文時代の、狩猟採取は大変でしたから、稲作の導入は歓迎されて弥生時代へ移っていったと学校で習い、狩猟採取の日暮らしのような生活より、農耕という計画的な生活に移行したことは進歩だと説明されます。そして、定住農耕から、工業へと移行出来る事が、社会の発展で、このコースに乗れなかった国や民族を、発展途上国とか未開拓民などと言う事もあります。現代社会と関係させて、不安定な採取生活より、定期的に収穫できる正社員の方が良いでしょうとも説明されます。本当に、狩猟採取より農耕が、農耕より、工業が発展した社会が発展なのかと考える事も無く、1時間も無い授業なのに、何故かみんなが確実に覚えてしまう発展の公式のようになっています。貝や魚・ドングリや動物を獲る生活は、収穫量に差があっても、相応の確保はできます。保存重視よりも、新鮮な物を食べています。それに比べて水田方式の稲作では、種を蒔いて収穫できるまでまたなければなりませんから、保存食を食べなければなりません。水田の維持管理に労働力が必要で、狩猟採取は限定されますから、保存食が十分でないと飢えが来ます。しかも、同じ作物を、大量に生育しているのですから、虫が大量に発生する原因ともなり、病害虫のリスクが常に存在し、収穫が壊滅することも出てきます。つまり、縄文では、海岸で採ることのできる貝や海草、カニやエビ、小魚は常に得られる食料でしたから、稲作の話を聞いても魅力は感じなかったと思われます。それに、縄文と言っても狩猟採取しながら農耕も併用していて、家の周りに陸稲と言って水田では無い稲作や、一部水田も行っていましたから稲作のリスクはちゃんと知っていました。だから、弥生になって稲作に移行して再び狩猟採取へ戻った人達もいたのです。実際、江戸時代になっても稲作が出来ない北海道などでは、狩猟採取の生活をしています。 現代では、沢山の調理があり、料理を楽しみますが、こんな事は近年の話で、人間はそんなに豊かな食生活をしてきたわけではありません。だし汁に拘るようになったのも近年ですし、調理器具や食器が豊富になったのも近年です。狩猟採取では、貝や海藻は土器の中に海水とともに入れれば、煮ることが出来ます。ですから、塩味しか無かったのですが、塩味だけの生活の方が日本人の歴史ではずっと長いのです。縄文時代には貝を煮て日干しにした干貝を煮て塩味に使用していたようですし、弥生時代にもこうした干貝や干した海草などが、塩味と出汁を出す調味料のように使われたと思われます。ドングリ類は小川の水にさらしてあく抜きが出来ますし、子どもでも取り扱いできる大きさです。動物の肉や魚は、直接火にかざしても焼くだけでなく、海の水と日差しがあれば、魚なら干物に、肉なら干し肉に、火の上に吊るしておけば燻製に簡単に出来ます。しかし、お米は、籾のままでは食べられません。穂首刈りし乾燥させた、稲穂を臼などに入れ、杵でついて脱穀と籾すりをし無ければなりません。さらに、弥生といえども素焼きの土器は水が浸みてきますから現代のような炊飯は出来ません。火のそばに水を入れた土器を置き、竹や草で編んだザルにコメを入れて蒸して食べていたようで、調理しなければ食べられない米は、手間のかかる食料でしたから、縄文人が米大好きだったとは思えません。主食がそう簡単には変わらないものです。縄文から弥生への転換は、稲作によってではなく縄文の終わり頃に始まる、世界規模の寒冷化と乾燥化によって変更しなければ生活できない危機によって行われたと思われます。この時期ヨーロッパでも中央アジアでも、中国でも、民族の南下が見られます。日本でも、東日本に多く住んでいた縄文人も寒冷化によって自然の持つ生産力が低下します。海からの魚介も変化します。栗やクヌギ、シイ、トチといった木々の植生が南下していきます。それに伴い動物たちも移動します。つまり、狩猟採取で十分生活は出来た自然の生産力は著しく低下し、今まで見向きもしなかった土地へと移動しなければならなかったのです。西日本に人工が少なかったのは、阿蘇の火山などの火山灰によって土地が痩せていたからと言われているところへ、縄文人は、移動を試み、朝鮮や中国から移動してきた稲作や青銅器文化を持つ民族と出会うのです。結果、人口統計はありませんが、20万人程度から5万人程度まで減ったと言われています。それは、生活上と言うより、稲作工事へ従事させられたり、奴隷的に扱われていった可能性が高いと思われます。中国からの移民は既に統治という知識を持っていますし、労働力としての人間の扱いについての知識も持っていました。だから、稲作に関わる土木工事を戦いや力で管理した縄文人にさせた可能性が高いのです。しかも、稲作のように定住生活では、奴隷の管理もしやすかったのです。土器では、コメを、炊いたりお粥にして食べる事が出来ず蒸していたといわれているように縄文人が欲しい食料ではありませんでしたが、青銅器の鍋や釜によって米の食料的価値はずっと高くなるのです。

 現代でも、勤めている会社が潰れなければ簡単に転職をしようとは思いませんが、倒産したならそうとも言っていられません。仕方なく転職した会社が、生産管理が厳しいところだったというのが、縄文人の気持ちだと思われます。民族・人は、他人の生活を見て今ある自分の生活を卑下しない誇りを持っています。歴史の中では、隣に発展していると言われる国があっても、自らの歴史を守る国は沢山ありました。未開と言われようと発展途上と言われようと自分たちの生活を守り続ける民族は経済という力では押し込まれていますが、生活では揚々としています。米生産社会になって日本は、国を形成し身分社会を形成し、支配と被支配という関係を形成します。そしてより大きな支配地域を拡大するために、戦争も行うようになっていくのです。稲作は、戦いの始まりであり、縄文的な公平対等の関係から、身分社会によって、生まれながらの生活の違いが出る社会の形成なのです。稲作によって幸せな弥生時代が始まったのではありません。