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知ったかぶりの話し

知ってるつもりの思い込みの感覚に、非常識な横やりを入れて覧る試みです

酔ってないと言う酔っ払いの話

    通常酔っている人に「酔っている」というと、酔っていないと返ってきます。そこには、酔ってはいけないという潜在意識があるからです。日本の古来の考え方に「神人共食」と言うものがあります。神と人とが同じ場所で同じ物を食べることによって、神と人が一体化し、親密を強め、共生することが出来ると言う考えで、神様に捧げたものをその場で飲食することまでが儀式でした。神に捧げる物ですから、自分たちの大事な物、価値ある物、日常で無いものとしてわざわざ加工した酒も重要なひとつでした。そして捧げ物は神から「おさがり」と言って頂き、その場で飲食するのです。この神人共食の儀礼が、人間間でも行われ、一味同心とか同じ釜の飯などと、飲食を共にすることが親密さの表現としてきました。中でも、アルコールによる向精神薬的酒は、神だけでなく、人間同士の一体感を高めるのにはちょうどよかったのでしょう。それが、だんだんに、神事終了後の宴のようになり、宴になって行ったのです。仏教では、飲酒は避けるべき悪徳であり苦しみを生み出す元とされて、日本の仏教各宗派でも飲酒を禁じていますが、僧侶達の間で般若湯と誤魔化してのみ、仏教寺院では、荘園からの貢納米から酒を造って販売していました。つまり、仏教と神道はお互いに都合の良いところは、勝手に活用しているのです。また、酒は、世界各地に自然発生的に造られています。それは、果実などは自然発酵しますから、縄文時代でもエゾニワトコ、サルナシ、クワ、キイチゴなどの果実の断片が遺跡からも発見され果実酒があったとも言われています。ただ、酒が液体であるためには、水が浸透しない器が必要ですし、アルコールの蒸発を押さえる容器が必要ですから、須恵器などが出来るまでは、練酒(ねりざけ)のようにペースト状が標準的で、作り置きできなかったので、儀式に合わせて作り出来たら飲んでしまうと言うことだったと思われます。よく言う、口噛みの酒は、アルコール度は5%程度、糖分と酸度は現在の4倍以上ということですから、ヨーグルトみたいな甘酸っぱい味とも言われています。発酵食品ですから、生きているので丁度よいときから腐敗まで進みますから、儀式に合わせ作り方にも専門性が必要だったので巫女が作っていたようですが、飲みたければ神様との儀式さえ行えば良い神道の宴会は楽しみです。それに比べて仏教はお釈迦様がだめと言っているのに、「酔うために飲むのではない、修行に役立つ智慧を生む般若湯として飲む」とか「酒を飲んで前後不覚になるまで酔うというのは、犯罪を招く恐ろしい戒律違反行為となるから飲むんだったら酔うな」と言い訳して、飲むだけで無く製造までしていました。酒は、家庭でも自由に作っていた時代もあるのです。 

 犯罪を犯す様な状態、酔っ払うのは、戒律違反になるが、酔っていなければ飲んでも良いと詭弁のようなことを仏教は言うのです。神道は、神様に捧げたおさがりを飲み神人一体となるのですから、酔っ払うなんて神への冒涜です。つまり、神も仏も飲んでも良いけど酔ってはならないといい、酔うことは「恥」だと言っています。日本の恥の文化では、「酔う」と言う事は恥ずかしいことなのです。古代、八岐大蛇は酔っ払って退治されます。日本人は、神道からも仏教からも、「酔ってはいけない」とずっと言われ続けていたのです。人は、生まれた社会の中で無意識に育成されていく潜在的な意識があります。中でも禁止されていることを自分が犯そうとしていることや自分が不利なことと意識されていることには、無意識に防御反応を起こします。だから、「酔ってない」と答えるのです。無礼講などと言われても、酔ってはならないのです。酔っ払いは恥なのです。数ある捧げ物の中で、得体の知れない酒が珍重されたのは、向精神薬としての効果があるのですが、その社会のルールを踏み外す危険も伴っていたのです。だから、酔うことは厳禁とされ、酔ったやつは辱められたのです。そんな潜在意識が、咄嗟に「酔ってない」と答えるのです。