知ったかぶりの話し

知ってるつもりの思い込みの感覚に、非常識な横やりを入れて覧る試みです

人権を武器にする人の話

  戦争がない平和な社会は、誰でもが想像できます。しかし、人権の守られている社会を想像出来る人はいません。なぜなら、どんな社会なら、全ての人権が守られているのかを誰も示してはいないからです。ですから、人権の先進国であるフランスやイギリスでも人権侵害は起きています。人権とは、と言われれば、人間としての権利とか、生命の安全とか、自由とか、色々並べることは出来ますが、具体的にどんなこととなると説明できないことが沢山あります。つまり、社会では個々人の権利がぶつかり合う場面があって、どっちが優先されるのかという曖昧さや権利と同等に義務もあるのではないかなど、何が人権を意味するかについてでも多様な考えがあるだけでなく、その社会によっても内容が全く違うからです。例えば、参政権。日本では当たり前と思っても参政権が国民であっても認められていない国は沢山あります。そして、人権という言葉は、いつでも正義の様に聞こえますが、考え方や内容は様々で論議も多々あって理想と現実の差も大きく、本当に正義なのかと思える場合もあるのです。だから、その曖昧さを悪用して、自分の都合の良いように人権を語る人も横行しているのです。時には、人権を武器にして自分の権益を守ろうとすることさえもあります。案外、人権を大上段に構える人ほど、相手を痛めつけるために、論議に勝つために人権を武器に利用しますが、日常生活では、人権無視の生活をしている場合もあります。そして、自分自身が、現状の社会慣習や常識に捕らわれていて、相手の権利を考えて自分の言動を検証するなんてことは行いません。本当に人権を守っている人は、日常生活の中の家族や友人、対人関係の中でこそ、一人一人の人格や一人一人の意志を大切にする事が机上の論議を超えて、実践することが大変困難である事を実感し、理想と現実と言う事を考慮して発言します。また、人権が声高に言われるときは、体罰だとか、虐待だとか、暴力だとか、あんな酷いことは自分はしていないと言うような事でしか人権を考える事がないからです。だから、体罰や暴力が法律上のどんな行為に当たるかの検証よりも、人権侵害だと人権という武器で相手を痛めつけることに使われてしまうのです。法律だけでは弱いときに、人権をかざして相手を打ちのめすことに使われるのです。例えば虐待。起訴されるときは、暴行罪とか傷害罪とか監禁罪とか、児童虐待防止法でも、保護責任者遺棄致死罪や傷害致死罪などで、結局虐待だから罪を重くするとかは出来ないのです。だから、人権侵害という包装をして酷いことだとアピールに使うのです。例えば、サービスとしての福祉では、人権の保障と言う事は重要視されますが、施設その物の存在が、人権侵害ではないかという人もいます。

つまり、一人一人の権利は、どのように誰によって守られているのかは、以外といい加減なのです。だから、人権の怖さは、語っている本人が本当は、実践していない人ではないかと思われることです。子ども達に人権を教える、教育の現場での数々の問題は、今でも多くの教師が生徒を呼び捨てにするような上から目線で教えるからです。人権は力関係では成り立ちません。ですから、弁護士と言われる人の方が、日常的人権保障には疎いばかりか、差別的な場合も見られます。人権が守られる社会とは何かを考えたとき、いったい誰が守るのかと問うと実はいないと言うことが分かるのです。実際に人権を守っている人は力が小さく、人権を武器にしている人の方が力が大きいというのが今の社会の実態なのです。