知ったかぶりの話し

知ってるつもりの思い込みの感覚に、非常識な横やりを入れて覧る試みです

躾はただの押しつけの話

 多くの人は、躾は必要だが、やり方や限度、行き過ぎが問題だと、躾を否定はしません。何故なら、しつけは、人間社会の規範や礼儀作法、慣習など実践的に訓練されるものであり、ある意味では、幼児教育とも言えるからと言います。普通の人なら、教育とまでは言わないが、基本的な生活習慣の自立は躾だと思っています。そして、躾によって、子どもは、社会的な自立行動のできる人となると思っています。問題が発生するのは、一部の不心得者が、体罰のような過度の行為をするからで、間違った方法さえしなければ躾は有効だと言います。そして、正しい躾の前提は、子どもが価値ある存在である事を認め、自尊心を傷つけず、子どもが愛されていることを知るなら、その信頼感から躾を受け入れていくと説明し、自由と放任は違うと言います。一定の厳しさをもって育てていくことが、子どもの自律心も育つと言います。そして、体罰は、伝統的なしつけの手法の一部で、今日では行き過ぎとなると言いますが、否定はしません。その理由は、親からの一方的な態度や威圧的な態度によって反論出来ない子どもが反発した事への罰として行われるのが体罰で、しつけは、子どもの反発を招くことがあるから、慎重に行わないと体罰に至ることもあると言います。そうならない為には、しつける側が道義的に正しく、公正で、一貫性を持つていなければならないとも説明します。つまり、体罰が起こりうることを前提として、起きないようにするのは、親が、正しい見本となる様な人間でなければならないと言うのです。逆に言えば、躾は、親の態度次第では、子どもの反発を招き、それを抑制する為に体罰は発生すると認めているのです。子どもの見本となる様な社会人であり、家庭人である親でないと躾は失敗すると言うのです。でも、そんな聖人君子みたいな親どこにいるというのですか。つまり、躾は子どもが反発する事が想定されるので、体罰が発生しかねないと想定して、躾と虐待の境界線を説明したり、体罰と暴力は違い、暴力は感情であり、体罰は愛情ですと言い訳します。そして、子どもの為と言いながら自分が感情的になり感情をぶつけるような叱りや罰は、虐待と言えると言いますが、罰を受けている子どもは、親が躾といういいことをしているのだから受け入れろと暗に言います。 そして、体罰や虐待が起きたとしても、躾は有効だと言います。「躾」と言う言葉は、中国からの漢字ではなく、日本で考案された漢字の国字の一つですが、漢字を分解すると、「身」と「美」になり、「身だしなみを美しくする」と解釈して躾は美しい言葉だと説明する人もいます。また、着物の仕付けからきたという説では、「仕付け」とは、着物の仮縫いで、自立すると仕付けの糸がはずされるから、自律をさすという人もいます。しかし、この論で言えば、既に形が決まっていてその形通りに仕上げることとなりますから子どもを親の形にはめ込むことが目的となります。

 では、それほど薦める躾には、体系化された「躾論」があるかというと実はないのです。実態は、その時代時代の文化や価値観によって内容が変わっていますから、躾と言っても、時代で散々変化しているのです。内容も、家庭内や社会の有害、危険、不安定な物に対しての対応学習なら自己防衛を確立することでの安全教育となりますが、朝の挨拶をするとか、靴を脱いだら揃えるとかは、道徳的な範囲で教える方の恣意的な期待が評価となりますから簡単に罰としての虐待が起きても不思議ではありません。さらに家族や社会が期待する行動や行為が出来るようになるなんてことは、本人の意志とは違うことも多々出てきますから、押しつけられたと思えば反発もします。特に、躾が実践的に学ぶことだとするなら対人関係の複雑さは家庭で、観念的に教えられても役には立ちません。実際親に確認すればいいのですが、親が何をどのように躾けるかなんて方針や計画や実行方法なんて総合的に考えてはいません。漠然と躾という曖昧な言葉を分かったように使っているだけです。本当は、自分の思い通りにしたいだけと言う事を、自分より力の弱い子どもに権力者として罰を与えてまで押しつけることが、出来ると勘違いしてしるから虐待になるのです。躾などと言う、実態のない権限を親になれば誰でも持っているなどと誤解させるから、体罰や虐待はなくならないのです。第一、生活を依存している親に簡単に反抗などできません。隷属する関係の中で、親の思い通りに行動することが躾の、実態で、体罰まで行っていたなら動物の調教とどう違うかというぐらいのことなのです。そして、大人の都合で一番大事なのは、社会に迷惑を掛けないことであり、家族に迷惑を掛けないことです。なぜなら犯罪を犯したりしたときに、親の躾の失敗と非難されるからです。日本の躾は、本人が個人として生きていくことよりも、家を如何に守っていくかの訓練として始まっています。個のためにあるのではなく、集団の維持のために必要なのです。だから、本人の意志よりも、集団適応のための掟を習得することに重きが置かれるのです。だから、親なら誰にでも権限と責任が課せられているのです。躾は、親に押しつけられた社会維持装置の末端機能だと思うのです。だから、体罰も虐待も勘違いした親によって起きるのです。親は、躾なんて事に惑わされずに、自分の子どもに本当に教えたいことは何なのか、考えて見た方がいい時代だと思うのです。