知ったかぶりの話し

知ってるつもりの思い込みの感覚に、非常識な横やりを入れて覧る試みです

現場を制するものが天下を制する話

   成功した人は、クレームは宝だと言いますが、実際クレームに対応してみれば分かりますが「宝」なんて悠長なことを言っていられるのは、偉い人だけです。対面している人は、今、相手の望む回答だろう、弁償や補償などにならないように如何に収めるかという結果に向かって頑張って対応するのが精一杯です。しかも、相手は、真逆な視点や想定されない手段や方法、そして理想論で、説得してきます。人間相手の仕事では、機転が利く人や、性格・能力・経験によって対応は様々ですが、現場で対応する人にとっては、徒労感や抑圧感、脅迫感などを感じ続けているている最中に、将来的展望をその中で見いだせるという話は現実を担当しない人の理想論としか思えないものです。現実はそんなに甘くないと感じている者にとって、クレーマーが理想を語り補償を求めようとすることと、現場にいない偉い人が、クレームは宝だと話すことは、結果としてどっちも理想をただ押しつけているのと同じにしか見えません。同じように、民事訴訟では、どちらかが悪いとはっきりしていることや、話合って解決できることは争いにはなりません。ある意味では、灰色を、黒に近い灰色か、白に近い灰色と言うことで争そっていますから、どちらにも言い分も主張も理想もあるのです。だから裁判で勝つには、相手の不備を探して突くしかないのです。言い負けしないように建て前と現実を如何に絡めて主張を組み立てるかに主力を置きますから、現場の現実などは脇役になってしまいます。弁護士は、依頼があればあたかもその仕事に精通しているかのように振る舞い、語り、現場では出来もしないことでもすべきことを怠ったと責め立て勝とうとします。弁護士は、現場を理解することよりも、自分の知りうる理想を掲げて、成功事例を並べて、自分の言い分ばかりを如何に言うかに専念し、正義をかざした難癖を押しつけしてきます。現場を知らない裁判官は、時にはクレーマー的だったり、時には偉い人的だったりして現場の臨場感や切迫感を感ずることなく、本来こうすべきであったと結論づけます。世の中には、誰もがそうありたいと願っていても、現実は、違うと言う事は沢山あります。例えば戦争。誰も望んではいないのに現実に繰り返されています。犯罪もその一つです。理想はみんな知っています。でも中々実現できないのが現実です。また、後から考えたら違った選択をするようなことでも、トラブルの最中には気がつかないことも沢山あります。トラブルは、初期対応が全てであるということは、誰もがわかっています。でも、時間は戻せないし、その時はそれしか選択できなかった切羽詰まった事情というものが誰にでも有るのです。よかれと思った選択が、あみだくじのように当たるのです。

 現場というのは、そんなことは誰もがわかっているだけどどうして良いかわからない、どうしたら出来るのか模索している、努力はしているけれどまだわからないなんてことが、溢れています。一人一人は本当に努力していることで、維持されているのですが、維持している努力は当たり前の事として、成果とは言われません。そして、トラブルが発生すれば、その過程や状況ではなく結果だけに評価が集中するものです。現場を如何に理解し、動かし得るかは武将の逸話に始まって様々な教訓や講釈はいくらでもあって、上司の数ほど論はありますが、結局、成功すればそれが正解のように振る舞い、失敗すれば不正解と非難されるだけです。現場があって理想が実現できるのですが、現場を上手に動かせる人はそんなに多くはないのです。だから、現場を制するものが天下を制するのかも知れません。