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知ったかぶりの話し

知ってるつもりの思い込みの感覚に、非常識な横やりを入れて覧る試みです

付加価値追求が、自然を破壊するの話

 自然に一番良いのは、自然にあるものだけを、利用使用して、使用後は自然に返すものとすれば良いのです。それは、鉱物から金属を抽出して使用する以外は、人間が長く行ってきたことでもあります。その、自然との一体感が大きく変わったのは、石油製品を初めとする「化学」の大きな進展です。化学により得られた、自然の変化物は、自然のサイクルの中では、原点へ回帰出来ないものとなりました。その結果、それまでは特権階級や一部の人間に独占されていた、物質の付加価値の追求が一般にも及ぶこととなりました。例えば、衣類。殆どの人が、同じ物を身分の違いで着用していましたが、化学繊維の登場で、複数の色、複数のデザインが安価に可能となり、付加価値を競い合うことで、販売という競争活動をするようになりました。ここでは、付加価値を望むことは、あたかも人間の本能であり、向上心のように解説され、単なる欲望の一つに過ぎないとは言われませんでした。だから、競って人々は人と違う衣類を求め、多種多様な衣類が生産されましたが、多数の残品も作りだし廃棄という無駄を同時に作りました。また、料理。食材を食べやすくするには、焼く、煮る、揚げる、蒸すなどに、塩の調味料程度で人間は長く満足してきました。それは、おいしく食べるという付加価値より、食べる事さえ困難な、飢餓状況の方が長かったからです。今で言う、フランス料理も中国料理も、一部の特権的人間のもので、一般庶民は、食べられない歴史の方が長いのです。お腹いっぱい食べることが夢でもあったのです。ですから、食材をあるがままに受け入れて食べると言うことは極普通のことで、おいしく食べるという付加価値を求めることは人間が本能的に望むものだという証明にはならないのです。おいしいという付加価値は、おいしくないという食べられるのに拒否する習慣を作り出したに過ぎません。つまり、付加価値を追求し販売したい人々からは、衣服の個別嗜好や食べ物の好き嫌いは人間の持つ本能的なものとして、その行為が人間本来の行動のように説明されますが、人間の歴史から見れば、極最近のことでしかありません。加価値を望むことが、人間の本能であり、発達の原点のような説明は、何が間違っているかというと、人間の個性や向上心、一人一人違うと言う事と、一人一人違ったものが欲しいと言う欲望とが同じとしていることです。個性と個人の欲望は全く違うのです。販売という競争活動の中で、他者と違うことが、個性と錯覚させられ、同じ服を着ていただけで、かぶった恥ずかしいことと思わせるように仕向けているに過ぎません。同様に、食材を見ても、産地や農法、種別等の付加価値を付けることに今は誰もが必死です。どのような食材の生産が自然に対して負担が少ないかという検証ではなく、如何なる付加価値があるかを競っています。その結果、人間が食べる穀物を家畜に食べさせて、微妙な違いを演出しています。肉牛に穀物を食べさせて得られる肉の量は、その何十倍の人間が飢餓から救われる量でもあります。自然に生えている草を食べて育った、牛であり鶏であり、豚であっても良いはずなのに、穀物を食べさせて生産された食肉が付加価値があると吹聴します。その家畜の餌となる穀物さえ食べられない人々がいると言うことは言いません。戦後日本の学校給食には、脱脂粉乳という米国の家畜の餌が使用されていましたが、子どもの栄養には役に立ちました。穀物で育てて付加価値を付けた食肉でなくとも生産は可能です。さらに、魚の養殖でも、マグロを育てるために、鰯が大量に使用されています。過去のように人間が食べた残滓を豚に食べさせているのではありません。今残滓は廃棄されているのです。家畜用に穀物が生産され、その家畜用穀物のために、農薬や肥料、農地の開墾によって、自然は傷つき、食べられない飢餓の人々が何億人もいるのです。乳牛の老いた肉より、霜降り肉、霜降りならブランドと、付加価値を望む度に余計な負担を自然に強いているのです。雑草で育った肉か、牧草で育った肉か、穀物で育った肉か、などという付加価値を望まなくても、おいしく調理するという技術は今の人間には十分あるのです。ジビエと言って野生の駆除動物としての、鹿やイノシシが宣伝されています。当然、穀物では育っていません。

 食肉用の家畜は、人間の食材の一つに過ぎません。養殖されるマグロも、人間の好みに過ぎません。食材の無駄、衣類の無駄と色々な廃棄物が出てくる原因は、付加価値を求めすぎるからだと思います。適切な料理をしてしまえば、どんな餌を食べていたかという付加価値など殆どの人はわからないかも知れないのです。同じものを着た人がいても、仲間と思えるような感覚でいれば、製造しながら新品で廃棄される衣類はもっと減るのです。そして、人類の長い歴史を見れば、こんなに付加価値に拘っている時代は本当はありません。経済を活性化させるための、販売数を増やすための付加価値追求ではない、人の価値を上げる付加価値の追求が今は必要だと思うのです。