知ったかぶりの話し

知ってるつもりの思い込みの感覚に、非常識な横やりを入れて覧る試みです

仲良しは弱いの話し

   グループというのは、不安の塊でもあります。小さいときから、様々な集団に属しなければならないなかで、一番心配なのは、仲良くしてくれる人がいるかどうかです。それは、道徳的に仲間は仲良くしなければならないと言われていることよりも、学校のクラスなど全く偶然に集められた集団では、一人である不安を癒やすために寄り合う為にも何となく、仲良しグループが成立します。初めから目的意識を明確にしている集団では、上下関係が強く、個人技が重要視されますから仲良しと言うよりは組織の一員として関係づけられます。不特定多数が集められた集団では、グループ、仲間を作ることは、自己防衛の基本です。何故なら、二人以上なら、交代で見張れば外敵から身を守れるし、寝ることも出来ます。身体的武器を持たない人間としては外敵に対して複数で対応するというのは本能として備わっている要求なのかもしれません。しかし、その本能の要求を満たすことが出来ないと、自己の思いを妥協してでもグループに取り敢えず妥協する、浮遊する人がグループの周辺を固めますが、どうしても、本能に煽られながらも所属できない人が最後に出てきます。ただし、一匹狼みたいなに自分に自信があるのでは無く不安感が非常に少ない人は、不安によって自分を曲げたりはしません。ところが、不安も普通で本能としても仲間を求めているのに、媚びることも隷属することも出来ない人がいます。相性の合うグループが無い場合です。この様な中で出来上がっている、弱い関係性の仲良しグループは、不安に弱く、不安が、攻撃的性質に変わることがしばしば見られます。中核的メンバーと浮遊的に繋がっているメンバーの不安感は、同調しやすく、同調した場合には、より強いグループへ向かうよりも、より弱いところに向かう傾向があります。仲良しグループは弱い部分を複数で寄り添ってかばい合っているに過ぎませんから、本質的には弱いのです。外へ向かう力よりは、お互いが譲り合って甘え合う中で保持されがちですから、外部へ向かう力は微弱です。闘う集団は、戦略・戦術・保持能力では、内部で喧嘩するほどの個性の対立が無ければ力にはなりませんから、外部への個別の攻撃性は低くなります。

 つまり、強いグループは個別的攻撃は弱いのですが、弱いグループは個別的攻撃を弱い者に向けます。しかも、裏面的で陰湿で、排他的になります。みんな良い子が、意識しないで行う微弱な攻撃性が、弱い仲良しを保持する手段となっていく過程があります。不安は見えない敵よりも見えて存在する弱い相手にこそ向けられるのが一番簡便なのです。みんな仲良しで、おなじことを考えている集団などありません。どんな仲良しグループにも、外からの環境や状況の変化として刺激は常にあるのですから、考え方も、感覚も、常に変化します。すると、グループが不安定になるのでは無いかと言う不安が出てきて、この不安を解消するために、弱い者への攻撃的一致を見ようとします。みんな仲良しなんてグループで、構成されている集団は、安定している集団では無いと私は、考えています。要観察集団であり秘めたる課題を抱えた集団だと思っています。不安定な集団には、誰もが気になりますから働きかけますが、仲良しばかりなら安定していると油断すると、はじき飛ばされている個人が見えにくくなると思うのです。偶然集められた集団が仲良しならば、うさんくさいぐらいの眼でみていないと、そんなはずは無いなんてことが起きるのです。