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知ったかぶりの話し

知ってるつもりの思い込みの感覚に、非常識な横やりを入れて覧る試みです

失われる共感としての書の話

 綺麗な字を書きたいと習字を習う人はいます。文字の力、書の力と言って字で占いや性格診断まですることもあります。就職活動などでは手書きが良いとされて、手書きで綺麗な字で書くことに努力している人もいます。でも、社会全体では個別でくせのある手書きより統一されたパソコンの字の方が行き渡っています。元々、字は文章のための部品に過ぎません。漢字は表意文字ですから確かに、1文字でも意味を持っていますが、字が綺麗と言うだけなら、パソコンで十分です。文字は、文章となって意志を伝えやすくなります。文字は、意志の伝達に於いて重要な役割を持っています。ですから、過去から誰もが読みやすい活字に憧れてきたこともあり、筆文字文化は、今日の生活の中にはなくなりました。筆文字としての書道は、古来からの「文字には力が宿る」ということが一般的に共感されてきました。しかし、今日の書道、書道展に行ってみれば分かりますが、すごい書と言われるものでも共感するどころか理解することさえ困難になってきています。書かれている文字は、漢詩論語の中からとったすばらしい言葉なのでしょうが読むことさえ出来ません。当然意味は解読困難です。まるでそれは単なるデザインのようです。外国の人が漢字をデザインとして全くめちゃくちゃな字の衣服を着ていると日本人が笑う事がありますがそれと同じ状態です。漢字は、表意文字ですから、漢字文化に馴染んでいればある程度見れば勘で分かる部分もあります。読みは違っても何となく理解することはあります。しかし、芸術としての書は読むことも出来ないのです。ぼんやりとでも共感しての書の良さというものが皆目創造出来ないのです。

 例えば、青と読めれば自分の中の青のイメージで書の青がどのようにすばらしいか理解しようとします。線が伸びやかであるとか、青空の感じが書に見られるとか。しかし、何という漢字かも分からないのですから、象形文字と言われても、分からないのです。それは書体の問題では無く、生活から筆文字文化が無くなり、身近な文化では無い外文化と同じようにしか見られないような現状があるからです。仏像を見て信仰心が高まるのでは無く、信仰心の中で仏像を見るとすばらしいとなるのと一緒だと思うのです。誰もが理解出来ない物はやがて廃れます。筆文字文化を残していくなら、漢字・ひらがら文化の人なら誰もが文字の持つすばらしさを共有し、共感できるような対応が必要だと思うのです。