知ったかぶりの話し

知ってるつもりの思い込みの感覚に、非常識な横やりを入れて覧る試みです

ガキ大将は幻想の話

 いじめとかあるとテレビで昔はガキ大将がいてね、なんて話をする人がいますが、全くの勘違いだと思っています。ガキ大将は優しくないし、苛めもあったし、体罰もあって現代社会にいたなら非難される存在だと思われます。何故なら、子どもの世界は決して寛容な世界では無く力関係が明確なところだからです。それは、子ども達が遊ぶ公園や遊園地をじっと観察すれば分かります。遊具の取り合いに始まって遊ぶ場所や遊ぶ仲間状態には、大人が対応しているような、思いやりや配慮はありません。大人が関与するから、大人が側で見ているから強い者も遠慮を示します。ですから、ガキ大将の世代の様に子どもだけの中では、年上だったり、体力の強い者だったりが親分のような態度でいたに過ぎません。そして、ひどいいじめをすると自宅へ帰って親に言いつけるという防止線があったから極端な状態にはならなかっただけです。ガキ大将がいた時代にいじめが無かったわけではありませんし、ガキ大将が、地域の子ども達の優秀なリーダーだったわけではありません。では、ガキ大将って何だったのかというと、遊びリーダーだったと言えます。子どもは、遊びに飽きます。電子ゲームのように次々と場面が展開しない、昔のルールの単純な遊びは、飽きが来ます。そのタイミングを見計らって次の遊びへと誘導できる子どもが、自然と遊びリーダーとして存在したに過ぎません。

 男の子のチャンバラごっこだって同一演出で放課後から何時間も出来るわけがありません。プロジュースしてこんなストーリーではどうかと提案し演出や配役を変えることでチャンバラごっこは続くのです。つまり、ガキ大将的存在の子どもは、遊びが造れたといえるのです。「何して遊ぶ」と言う問いに、こうして遊ボーととっさに言えたのです。そして、遊びの仲間はずれにすることで、権力を握っていたのです。参加する子どもは、遊びたいから、従っていただけで、ガキ大将として信服していたのではありません。子どもの遊びが大きく変わったとき、具体的に遊びを提供できない大人は、過去の幻想を持ち出すのですが、ガキ大将なんていなくても、遊びを提供できる大人がちゃんといれば子どもは、適切に遊びます。子ども達にどんな遊びが提供できるかが大人の役割だと思うのです。子ども達の中の大将を探すより、大人が子どもの遊びの大将になることが大事だと思うのです。