知ったかぶりの話し

知ってるつもりの思い込みの感覚に、非常識な横やりを入れて覧る試みです

神は無くても宗教の話

  中国の宗教と言われる、道教儒教には、神はいません。中国の王は、天帝の子ですから天子つまり、神も同然と考えます。天命によって王として君臨し、徳を失うと新たな王を天帝が天命として定めるとなり、逆に覇者は、天命により覇者となったとして天子、神の子となって天下を治めるとなります。過去の古代文明である、地中海地区、アフリカ北部地区、中東地区、インド地区、など同時代の文明では殆どが多神教です。しかし、中国の文明では、神という創造存在では無く、人間その物が神格化してしまうのです。理由としての私見では、多民族の集合体として、各民族の神を集合させれば多すぎ、一つにするには反発する民族もいたから、征服者が神になった方が手っ取り早かったのかなとも思います。この影響で、中国では他の宗教に見られる神的存在への対応が見られません。逆に言えば、神を否定します。仏教もありますが決して主流ではありません。道教儒教が生活の底辺を埋め尽くし、それに対応した仏教になっています。つまり、人間の精神的安定や心の支えとして必ずしも神という存在が無ければならないとは言えないのです。

 人間は確かに不安定です。二足歩行していること自体が不安定ですから、休みが必要なのです。でも、みんなが同じところで同じように集団で休まなければ、オオカミに襲われるわけでは無いのです。一人一人が身体機能も違うのですから、一人一人が自分の不安定を休ませることが出来る方法を持てることが大事だと思うのです。それは、神を信じることでも、神がいなくても、我がいれば可能だと思うのです。自分を大事に出来る生き方こそが、神がいるときも、居ないときでも、最上のものだと思うのです。