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知ったかぶりの話し

知ってるつもりの思い込みの感覚に、非常識な横やりを入れて覧る試みです

人は罰に対して反応するの話

 人は、罰に対して敏感に反応しますが、罪に対しては鈍感です。同じ人間が作ったものですが罰は強制され逃げることが出来ませんが、罪は押しつけられますが抵抗することは出来ます。犯罪を行えば、罪を犯したから罰を受けると言う順序で、罰が先になることはありません。では罪とは何かというと、法に従っていないと言う事です。では、法は絶対に正しいのかというと法が間違っていると言う事はいくらでもあります。でも、法が間違っていると云う人がいても、罰は権力によって執行されます。つまり、罪だと指摘されも罪を自覚は出来ないから、累犯とか再犯という自己制御機能への働きかけにはならない罪もあるのです。罰は社会維持のために必ず執行されますが、罪とは何かを考える機会は少なく、法が正しいかの検討など殆どありません。裁判に期待しても原則は、悪法でも法を守っているかいないかを判断することが殆どで、法を検討するなどは極まれです。なのに、罪の意識や罪を償うと言う事が当然とされていますから、罪を意識するより罰から逃れることばかり考えるようになるのです。例えば車の運転で交通法規に誰もが常に従っているわけではありません。駐車違反なんて案外捕まったときは運が悪かった程度の感覚の人もいます。横断歩道があればどんな道路でも徐行しているとは限りません。

 つまり、社会には罪と罰があると言いながら、何を持って罪とするかは、以外と社会の状況や体制で変化しているのです。だから、罪の周辺となる道徳やモラルや社会通念などを多用して底辺を支えていかないと成り立たないこともあるのです。しかし、そんなことを丁寧に行わなくても、罰が有るぞと言えば人は従うと言う事を社会が行っているのが現状です。だから、その裾野で、形を真似て、体罰や虐待として、罰で人を動かすことが無くならないのだと思うのです。