知ったかぶりの話し

知ってるつもりの思い込みの感覚に、非常識な横やりを入れて覧る試みです

ばちは当たらないの話

 昔はよく悪いことをすると「ばちがあたる」と言われたものです。これは仏教用語の因果応報や輪廻転生などから後世の宗教屋が考えた利益誘導の言葉でしかありません。仏教には、脅しはありません。一人一人が生きていく上で苦しみもがきがある事を前提としてどう生きていくかをサポートするのがブッダの云う教えだと思います。脅してまで云う事を効かせようとしたり、教訓の道具ではありません。人は生きる中で、欲があり、恨み辛みがあり、妬みにまみれていながらそれでも誠実に生きようとする苦しみに修行した僧からサポートして貰う事で一時の安堵を得ようとしています。偉そうに上から批評し批判し評価する、そして罰をちらつかせるなんてことはまさに正しい行いではありません。罰当たりなのは、「ばち」を語る者です。どんなに生活が大変かを聴き、寄り添うように支えるのが教えだからです。社会の状況や環境の変化で、作法も道徳も変わってしまいます。今語る人権だって最も悪だと云うときもありました。その時代に人権を語った人が地獄に落ちていたとしたならこんな悲しいことはありません。上手くいったら神仏のちからで、上手くいかないのは信心が足りないと言い訳するような宗教屋は、「ばち」を振りかざしますが「ばち」などありません。

 人を傷つけること無く、生きている中で、罰が当たることなどありません。だからこそ社会の掟に縛られず自分を大切にすべきだと思うのです。