知ったかぶりの話し

知ってるつもりの思い込みの感覚に、非常識な横やりを入れて覧る試みです

弱者の恫喝になるとすごむ地域の話

 知的障がいのグループホームを建てようとすると、近隣の理解を得ているかと言う差別的なルールが今もあります。過去には自治会の承諾書を持ってこないと認可さえしないと行政に言われたこともあります。最近は同意書までとは言わなくなりましたが、設置の説明会はしなければならない状況は隠然としてあります。グループホームは、障がい者ばかりが住むということから近隣住民の理解を得なければならないというのは口実にすぎず、

反対者がいるという前提で後日トラブルとなるよりも事前に媚を売っておけと言うことに近いルールです。障がい者グループホームは、民間アパートの住民管理型でもありますから、結果として障がい者をちゃんと管理しますと周囲に宣言しろと言うだけのことです。迷惑施設がやってくるのだから、迷惑を掛けませんと約束して来いということです。不特定多数の個人が住む通常のアパートの方が如何に管理会社が確認していようともトラブルが発生するリスクは格段に高いと思うのですが、アパートやマンション建設で反対運動を行う人は多くはありません。ところが、障がい者の施設となった途端に、上から目線で高飛車に許可権でもあるかの如く、近隣住民が多弁になります。社会福祉法人だけでなく社員寮だったとしても、入居者に対しての入居条件や管理責任は組織が普通に堅持していますから、苦情は個人にではなく組織が受け取ることとなり、騒音問題やゴミ屋敷などと言うトラブルになることは基本ありません。ですから、今日のプライバシーなどを含めてどんな人が住んでいるかも分からない民間のアパートのから比べたら、ずっと分かりやすいアパートと言えます。さらに、施設となれば、定員とか施設設備とか決まっていますから防火設備などを含めて法令順守の建物が出来ます。にも関わらず、設置しようとすると、近隣住民に説明会をしなければなりません。近隣住民と言っても職業も生活もバラバラですから何をどこまで説明するのかさえ曖昧ですが、本音としての近隣住民が求めるメインは「安全か」です。工場でも作業場でもなく同じ人間が住むのにその人間は安全なのかと言う問いです。ですから説明会では、安全ですと宣言し、安全を担保することが求められるのです。確かに人間は不安の除去のために努力しています。つまり、安全の確保は、不安の除去に通じますから、不安は危険であり危惧の除去となります。障がい者グループホームを設置したいなら、安全を担保しなさいと言う要求の本質は、障がい者への不安と危険観です。漠然とした不安感それが嫌悪観でもあります。そんな近隣住民がいるところで、障がい者グループホームがなぜ必要なのか、何故ここに建てることになったのかをどれだけ説明したところで、嫌だなと思っている人は何かと粗探しばかりをして設置を断念させようとします。行政も障がい者の制度としてグループホーム設置を推奨するのなら、近隣住民の説明会などと条件など付けずに、法律の条件を満たしているなら許可すればいいだけのことですが、許可者の責任を問われないように話し合ってくださいとしか言いません。その結果当事者間の話し合いの末、結果として近隣住民の納得を得るために、地域に媚て利用者の権利を制限する約束をしたり、地域に利益を提供したりしていることもあります。その挙句に、設置反対の先鋒だった人が今では地域一番の理解者ですなんて美談は福祉施設にはいくらでもあります。福祉は地域の皆さんの理解と協力なしにはなり得ませんなどと手もみしながら進んでいくと、利益供応が解決の手段になって面倒見てやっているという住民と住まわせていただいているという施設の関係が固定化されて、結果のしわ寄せは利用者が支えることになるのです。説明もしないで強行突破が良いということではなく、何故障がい者がそこで暮らすと云っただけで近隣に説明しなければならないかの本質が、危険だからにあることを行政も認めている状態があることに違うと思うのです。実際その実例として、最近の関わりで自治会に事前説明に行ったところ、「家には娘がいる」「子供の通学路にある」「地価が下がる」「こんな交通の激しい狭いところではなくもっと緑の多い広いところがいいのでは」と平然と語り、障がい者は何をするか分からない不安な存在で、女・子供が被害者になりかねないと危惧する発言をします。その後に、説明会を開催すると、設計士に対して「この設計をすることに良心は痛まないのか」「敷地内目いっぱいに建物を建てて、法律さえ許せばそれで良いだろうという傲慢さを感じる」と依頼されて法律に則って設計しただけなのに悪人扱いをします。当然設置側には、「近隣住民に迷惑をかけて、ふざけていると思う。普通のアパートだったら猛反対している。あまりにも非常識だと思う。」「皆が普通に生活している場所。図示された立面図を見て、呆れている。なぜこの場所を選定したのか。駅前にも川向うの田んぼの中にも物件はあるのに。」とまで非難します。そして脅すのです。「近隣住民と上手く付き合えないと、住むことになる障害者に罪はなくても、恨みを買うことになりますよ。」「グループホームを建てるにあたって、誓約書を差し出してもらいたい」「知的障害や精神障害ということが心配。とくに、ある程度自分たちで身の回りのことができる人の方が、昨今の報道にあるような悪いことをするのではないかと心配になる。建物にも反対だが、一度にたくさんの障害者が住むことになる不安がある。」なとと録音しておきたいような言葉を並べ立てるのです。あまりに酷い言い方をしたことに、差別的なことは言わないで欲しいと言うと、今度は「被害者意識は止めていただきたい。弱者の恫喝になる。」と恫喝します。それなら、ここで言ったことをみなさんの前でも言ってみるが良いと言ったら脅し合いになりますから黙りましたら、「反対運動の資料になるから図面のコピーをよこせ」と本音を言いました。そんなことを口にする、連中は自治会だの、子供のスポーツ会だのの幹部であり地域の名士でもあるのです。だから、口では、障がい者理解も語りますし、地域の自治も語りますが、本音は、安全確保のためには、障がい者グループホームは迷惑施設でしかないということです。

 

 

これだけ一票が踏み台になっても選挙は成立しているの話。

 NHKから国民を守る党(報道ではN国と言われている)が参院選比例代表で1議席を得ました。この代表の立花氏は一票の重みを語る知識人より遙かに現実的な方法で、結党して6年という月日で、国会議員の席を確保しました。報道された、本人が話す内容はこうでした。立花氏は、船橋市の市議に「NHKから国民を守る党」として立候補して初当選しますが、1年程度で、東京都知事選に鞍替えします。知事選では落選するのですがすぐに、東京都葛飾区議に立候補、当選して1年半ほどで、今度は大阪堺市の市長選に立候補します。そして落選。今回の参院選立候補となります。つまり、選挙で当選してもいわゆる腰掛程度の議員活動と地域とは関係なく少しでも上位と思える議員の座を求めて鞍替えしていくという方法で、次には衆議院に鞍替えすると明言しています。この間に、NHKから国民を守る党としての知名度は上がり、地方選では、26人の地方議員を当選させています。その地方議員にも議員活動などは本人任せで、目的は地方議員の給与から金を借りるためと言い、「国政選挙のための資金稼ぎ」と公言しています。確かに、参院選比例区に出るには10人以上の候補を有し最低3千万円を超える供託金を準備する必要がありますから、26人の地方議員を資金源とすると言うのは効果的です。現に、今回の参院選には、37人もの候補者を立てているのに「候補者が当選するとは考えていないが」「売名行為」ができればいいと明確です。NHKのテレビ政見放送でもひたすら「NHKをぶっ壊す」と言う一つのフレーズを繰り返し続けた候補者もいました。とにかく、数を確保するためにどうすればいいかそれだけに徹して、ルールさえ守れば何でもありという作戦で、選挙区で計3・02%の票を得て、国庫から約5900万円の政党交付金を受ける資格さえ得ました。立花氏の公約は、たった一つで、受信料を払った人だけがNHKを視聴できるようにするスクランブル放送の実現だけです。これまでの政党なら、数ある公約の中のその他に掲げる程度の小さい小さい事柄です。しかし、あの高飛車なNHKの態度と選択したい候補がいないと嘆いていた人には、面白いと感じられたのかもしれません。でも投票した人の思いなど関係なく立花氏は、民主主義は数の論理ですと数を求めて、世間から非難されている議員を含めて大勧誘を始めています。過去には、三公社五現業と言われた日本国有鉄道日本専売公社日本電信電話公社の三公社は民営化され、郵政・造幣・印刷・国有林野・アルコール専売の五事業も国有林野事業を除いて民営化または独立行政法人に移管されました。その流れから言えば、NHKも民営化されてもおかしくはない組織で、契約の義務は法律にあっても支払いの義務が書かれていないのに税金並みの取り立てをしたり、契約の終了の規定がないなど問題がありますから、不愉快と感じている人は沢山います。ですから、単刀直入なNHKから国民を守ると言われると何か期待してしまうかもしれません。こんな方法でも民主主義では選挙は成立し、立花氏に投票した船橋市民や葛飾区民は、ただ踏み台にされたという事実さえ非難されることもありません。そして、立花氏は当選会見の場で早くも「ぼくが衆議院にくら替えする可能性は極めて高い」と語ったことは、政党交付金を使えば衆議院に立候補する資金は得ましたという意味になります。立花氏は、立候補すれば、NHKの政見放送で、再び「NHKをぶっ壊す」を繰り返すことが出来、勢力拡大の為の広報活動になると確信しています。立花氏に投票した人の思いなんて何も語ることはありませんし、マスコミも立花氏に何か変だという表現はしても一票を踏み台にする不適切な方法だとは言いません。ただ、NHKから国民を守る党方式で、一点集中型の不満を票に結びつけて独裁的政権を生み出し全体を不幸にしたという歴史も日本にはあります。つまり、民主主義は、話し合いや性善説で成り立っていると説いている間に、選挙と言う権力掌握手段によって、戻れない方向へ向かうこともあります。民主主義は、人類の理想ではなく、過程にすぎないことを、選挙は民主主義の理想を叶えるものではなく、数の論理で成り立っていることを、マスコミも適切に話さなければ自分たちが否定される側にいつなるのか分からないということを認識すべきだと思うのです。

学校から体育をなくした方がいいの話

 独立行政法人日本スポーツ振興センター(JSC)」の災害共済給付制度には、全国の小学校、中学校、高校、幼稚園・保育所などの児童・生徒らの約9割が加入していると言われていることから、このデーターを国立研究開発法人「産業技術総合研究所産総研)」が14~16年度の約322万件を分析したという記事が出ました。その中では、国が対策を示した後も、児童・生徒らが命を失い、重い障害を負う事故はなくせず、且つ同じような事故が毎年繰り返されていると結論づけています。記事によると、事故は年間平均で小学校と中学校で各37万件、高校26万件、幼稚園・保育所など6万件が起きており、校舎内(教室、廊下など)21万件に対し、主に運動を行う校舎外(運動場、体育館、校庭、プールなど)が68万件と3倍起きていて、学校外の(通学路など)も16万件あったということです。JSCの災害共済給付制度では、医療費総額5千円以上のけがや一部の病気に対し、4割分が支払われる方式で、大半は給付額1万円未満の軽い事故となっていますが、1万円以上の重い事故が1割強の13万件もあるということです。事故の原因についても、小学生では、授業の合間や放課後などの休憩時間に遊んでいる時が半数近くを占めて子供なのでなんとなく仕方ないのかと思うのですが、次に多いのが授業中で、その大半を体育が占めるということなのです。中身も、跳び箱の着地の失敗や、マット運動で首をひねるなどは、あきらかな人災と言うべきことです。さらに、中学、高校生になると、運動部の部活動が半数を超えて、部員数が多いバスケットボールやサッカー、野球、バレーボールなどで事故が目立ち、重い事故は柔道やラグビーなどの体をぶつけ合うスポーツとなっています。事故は、学年が上がるにつれて増え、中学2年がピークとなり、部活動を引退する中学3年で減り、高校1年で再び増え、命に関わることもある頭のけがは1万2千件以上あるということです。この状況から見ても、学校の体育の在り方に問題があることは明白です。その論拠として、体育の授業の跳び箱事故は1万5千件も(中学・高校も含むと2万件余)起きていますが、跳び箱を飛べることは社会では何の役にも立ちません。日本の体育は、中央集権国家を建設するための青少年教育の意味で用いたことが始まりで、軍事教練がその伏線にありました。その意味では既に、徴兵もないのですから、スポーツは教育ではなく、余暇の選択でいいと思うのです。体育関係者を含めて、子供たちは体を動かすことが好きだとか、体操は子供たちの人気ある教科だとか言っていますが、それは体操好きな大人の思いこみでしかありません。ですから跳び箱が嫌な子供に対しても、いろんなスポーツを知るためとか、身体能力を向上させるとか、色んな経験を積むためとか説明しますが、それは、何故算数をやるのと言われたら国語も理科もやるのと同じだと言っているのと同じでなんの説明にもなっていません。身体能力は後天的に努力しても大きく変わることはないのに、クラスみんなが見ている前で一人一人が演武しなければならない体育に、公開処刑だと運動が苦手な子が言ったことがあります。体育とスポーツは既に大きく違ってきています。体育への異なる価値観、異なる視点から見るなら、クラス30人近くの児童に、十分な指導者の確保ができないにもかかわらず、敢てリスクの高い体育を行う必要があるのかと言うことです。体育のリスクを回避する対応は、学校の集団ではできる環境にはありません。子供同士のふざけ合いや、精神的高揚、闘争心、格好、見栄えに対してケアのできる体制にはないのです。この報告書でも、事故の対策後も情報が十分に共有されず、似た事故が繰り返されており、小中学校の授業でのプールの飛び込み事故も、学習指導要領で禁じられた後なのに3年間で計42件あったとされています。体育の授業は、クラス単位で行いますから、技能や能力に応じて配慮されて、行われるのではありません。出来ないから緊張し、緊張するから失敗するのです。そして失敗が事故に繋がります。JSCが結論付けているように、学校の体育では、国が対策を示した後も、児童・生徒らが命を失い、重い障害を負う事故はなくせず、且つ同じような事故が毎年繰り返されているという事は、学校の体育の授業で起きた事故は、人災なのです。この何万件もの事故を見る限り、安全であるはずの学校の授業で障害を持つことになることは健全ではないのです。どうしても、スポーツを体験させたいのなら、地域の中にスポーツクラブを認定し、単位取得が可能なようにすべきだと思うのです。

一票の重みより組織票はずっと重いの話

 選挙が近づくと選挙に行こうと様々な人が広報しますし、テレビや新聞でも一票の重みを熱く語ります。あなたの一票が社会を変えるかもしれないなどと言う声かけに心を打たれて投票に行った人も多いと思います。しかし、これはみんな欺瞞です。ですから、何回かの選挙に行って気が付くのです。自分の一票がいつだって死票の如く社会に反映されていないし、多数決で決めるという事は、みんなと同じじゃないと結局反映なんかされないということに。選挙の原理を調べれば分かることですが、組織票が絶対に強く、対立していたのなら、一票差でも負けた方の票は反映されないのです。そして、組織で過半数を取った政党が政治を動かしていると言う事実です。その結果、その政党を支持している人が全体の20%に及ばなくても政権を掴むことは可能となるのです。しかも、組織票は利益の分配ですから、優先的にその組織にまず分配があるのです。その実例は今のアメリカを見れば分かります。どんなに批判されてもトランプ氏は、大統領の権限をフルに生かして選挙で自分を支持する人のために施策を推し進めています。知識人と言われる人たちがいつも言うような十分な論議をすべきだとか、反対の人の意見もちゃんと聞いてなんてこともなくても権力は続いています。戦後アメリカの議会民主制方式を取り入れただけでしかない日本の選挙では利益分配組織が圧倒的に強いのです。何故なら、金権選挙は批判されても、人員動員は批判されないからです。選挙ではどれだけ人を動員できるかが当落に大きくかかわります。会社や団体を含めた組織が選挙活動を行えば、仕事中や業務中でも動員は可能ですが、組織を持たなければ、仕事を休んで弁当と飲み物を持って候補者の所へ来てくれる人を探さなければなりません。人がいなければ、公式な場への選挙ポスターさえ貼り終えることも出来ず、街頭や駅前でビラ・チラシを配ることさえままなりません。ネットを使用するという方法もありますが、今やネットの世界も溢れかえる情報で余程の有名人でなければ、選挙に出ているというだけで開いてくれるものでもありません。よく自転車に旗指物で行っている候補者もいますが、選挙地域が小さければ可能ですが、大きければ回り切れませんし人のいない野原を叫びながら走っても得票には結びつきません。お金を払うと選挙違反になりますから、現金ではない未来の利益還元を約束してただ働きをしてくれる人を探していくと、組織に出会うのです。例えば、100人の有権者がいて全員が必ず投票したとしても、候補者が2人で対立していれば、51票と49票になったのなら49票は反映されません。反対者の重みとか言いますが、当選した者が官軍なのです。さらに、候補者が3人とか複数になると選択に迷う有権者が増えると、多数決ですから当選のための得票数値は下がります。この時2割の支持しかないと言っても20人確保出来ている基礎票を固めている方が有利なのは当たり前のことです。つまり今の民主主義のルールでは、選挙では自分の権利を誰に委任するかと言うことですから、委任したい人が候補にいなければ投票しても結果は同じなのです。その意味では、当選者と支持者であっても、すべてが一致しているわけではありませんから、当選後の活動は当選者にすべて委ねられてしまいます。ほぼ全権委任なのです。その、議員だって議会で質問しても意見を言ってもそれで何かが大きく変わるわけではありません。法治国家と言われる日本では議員は立法府の一員で法案を法律にしなければ行政府としての官僚は動かないのです。どんなにいい法案でも、当選者の中で、多数派を構成しなければ法案を堤出すことも通過させることも困難になりますから、ここでも組織の一員であることが有利なのは当然です。つまり、一票の重みを語っている人々だって、直接選挙制でもないこの制度の中では、現実的ではない理想を語っていることを自覚しているはずなのです。選挙が終わるたびに、一票の格差に関する裁判が行われています。その裁判結果からしても、公式に、公が一定の範囲内なら格差があることを認めています。それは、一票の価値は、公平ではないと認めたものでもあります。ですから、一点集中政策であっても、不満の集中であっても、組織化しなければ議席は確保できません。マスコミ等に出てくる識者が選挙の理想を語り現実和を話さないことが、ますます自分の一票なんて本当はとても軽いということに気が付いて、選挙に無関心な人を増やしていると思うのです。あなたの一票で何かが変わるなんて甘い話をするから行くたびに幻滅を感じる人が増えるのです。選挙には、一人一人を大切にするという機能などないことをきちんと説明すべきなのです。そして、何かの施策を実現したいなら、徒党を組んで、多数派を構成しなければならないということをもっとはっきり説明すべきだと思うのです。

表現と作品は違うと思う、アート表現の話

 障害を持つ利用者の中にも、芸術的に優秀な人は確かにいますし、発想や作品が秀逸な人もいますが、それはほんの一部にすぎません。多くの障がい者は自己表現としてアートを活用することは勿論、作品として仕上げることが困難です。それは、健常者と言われる人も同様で、自己表現手段の一つとしてアート作品があるなんて人はほとんどいません。むしろ、絵で表現してなどと言われると困ってしまいますし、むなしいや愛しいなんてアートで表現しろと言われたって出来るものではありません。つまり、誰もが自己表現手段の一つとしてアートを先天的に持っているのではなく、その手段や方法に、出会い、学習することによって、習得し、色々な表現手段の一つにしているにすぎないと思うのです。ところが、障がい者に理解のあるアートセラピーの人々であっても、障がい者が作ると何でもかんでも障がい者による表現活動としてしまいがちです。初めはそれでもいいのですが、出来上がる作品が同じことの繰り返しであることから、始まりの頃の輝きが失われ数年の内に停滞期が訪れている場合が見られます。ですから、私は、障がい者が頑張ったのだからこれは立派な作品であるとか完成品だから他者が手を加えるべきではないという考えに反論しています。私は、障がい者が描けばそれだけで立派な表現だと過剰に褒め称えることは逆に見下した考え方だと思っています。特に知的障がい者の場合は、作品を完成させたいという要求よりも、製作中の過程の変化を楽しんでいると私は考えています。知的障がい者は作品作りを楽しみますが、何もアドバイスをしなければ、社会的に評価される終結点を認識して作品を完成させたり、自分自身の認知として作品の終結点を決定することが苦手だと思っています。つまり、知的障がい者だけでなく、アートの表現は必ずしも他者の評価を求めているものではなく、その製作過程を楽しみその活動状態そのものが表現活動で、支援者等が評価する状態も通過点に過ぎないと考えています。それは、誰かが、適当なところで終結させなければ、動画のように進んでしまいシャッターチャンスが失われるということでもあります。むしろ作品は完成品とするのでは無く、アイデアであり素材であると仮定した方が適切だと思うのです。アートセラピー等では、障がい者が製作した物の多くを作品として終結してしまいがちです。販売の場合にも、その作品を壊さないという視点を持っているために、キャラクター的に限定されて汎用力が非常に狭くなっています。私は、障害があっても成人が作りだすものは単独の作品に拘るのではなく、集合体の部分として一つの製品に生かされていることが重要と考えています。つまり、売れるモノづくりに関与することが大切だと考えています。何故なら、成人の障がい者がアート活動をしているのを見て、「お絵かき出来ていいですね」と言われることに大いに不満を持っているからです。みんなが働いているのに、障がい者は昼間も、お絵かきしていると言われることが不満だからです。そして、アート活動は、様々な方法で、障がい者も多様な表現力を持っているという証明は出来ても、今はまだ、表現されたものが一体何を言わんとしているのかを通訳し対応する技能を私は持ち合わせていません。それならば、未来にアート表現の翻訳機が発明されるまで、製作物として社会で「売れるモノづくり」に参加することの方が適切だと考えています。活動を支援する人たちの満足のためではなく利益が利用者にもたらされることで成人の障がい者のアート活動が仕事であり、働く場であることを知ってもらうことも必要だと考えています。ですから、創作としての作品ではなく、製作としての素材の一部として、その素材を自由に切ったり張ったり組み合わせたりすること、その素材の一部を構成することをプロデュースするなら、「売れるモノづくり」のデザイナーとなり得ると考えています。小さな声を合わせるとか、小さなものでも大きな力にと言う人たちも何故か、アート作品的になると個人の所有に拘ります。しかし、何かを作り上げても、生かされることに繋がらないと静止した物体にすぎませんが、アイデアであり素材となれば原資と言えます。福祉関係者は、売ることに抵抗感がありますが、売れることは啓発・広報することよりはるかに効果的だということを知るべきだと思うのです。

世界遺産より教育ちゃんとやれユネスコの話。

 ユネスコは、国連の教育科学文化機関として、教育,科学,文化,コミュニケーション等の分野における国際的な知的協力(国際規範設定,専門家の国際会議,国際学術事業の調整,情報交換,出版など)及び途上国への開発支援事業を行うというとても良いことをする機関ですが、その活動はほとんどニュースにはなったりしていません。それでも、職員数は2200人ほどいて、単純に年収が400万円程度でも、80億円ほどになるぐらいの人件費が掛かりますが、各国の拠出金で賄われているので過去にも放漫経営で、経費ばかり使っている機関とも揶揄されてはいます。日本は、会費は37億円程度ですが寄付も合わせると50億円ぐらい払っているそうですが、人件費にも足りないぐらいです。寄付金で成り立っているユニセフでは、金というのは勝手に集まるものじゃない。集める努力をしないと集まらないと言って広報や事務費や人件費として寄付金の25%をカットしています。世界には、学校にいけない子供や文房具もない子供が沢山いると盛んに叫ばれていますし、小学校程度すら満足な教育機会に出会えない子供たちがいることも事実です。ですから、誰もがユネスコの活動に賛同していますし、頑張ってほしいと思ってもいます。しかし、今日では、ユネスコと言ったら、世界遺産しか思い浮かばなくなってきている感が広がっています。そして、世界遺産が国内に何個あるかの競争的であったり、認定に力を入れているということばかりが報道されています。では、世界遺産て何と言われたら適正に応えられる人いるのかなと言う疑問が私にはあります。ユネスコの仕事として文化の保存は一つの分野ですが、世界遺産認定活動は、現状を見てみると観光に押しつぶされて本来の保存と言う意味さえ失われつつあるのではないかと危惧するのです。世界遺産に登録されたという群馬の製糸工場跡は、報道された後はその価値を確認することも出来ないぐらいに観光客が一時的に訪れましたが、今では十分見学出来ます。過去の文化財が金になるというのは、イタリアやエジプトなどの多くの事例を見れば分かることではありますが、観光として永続的に金儲けに結び付ける事はそんなに簡単なことではありません。つまり、世界遺産に登録されることが観光資源になり文化財を守る基金も作れるという幻想を登録の目的として、終結するような活動で文化は守れません。本来なら消滅して歴史の中に埋もれ消えていたはずの極一部が、人為的に守られたり、奇跡的に残ったというのが文化財ですが、そこには学ぶべきことがあって残っているのにその学びとは関係ないなら形だけの物なら消滅しても仕方がないものだと思うのです。世界遺産になったから、お金儲けができると思っている人たちは沢山いるのかもしれませんが、世界遺産と言うブランドは今では希少価値もないぐらいに我も我もと申請し認定している現状ではそんな効果も限定的と言えます。問題なのは、ユネスコが片棒を担いで観光地にした文化財を見に来るのは、教育を受けられなかった人たちではなく、観光地を訪れるだけの余裕のある人々であり、貧しい国の世界文化遺産では、見に来る観光客の場で、学校へ行けない子供たちは働いているかもしれないのです。世界遺産の認定のため現地確認にユネスコが派遣する職員の旅費だって文具にすれば何千と言う子供たちに配ることが出来るかもしれないのです。国連は官僚主義が蔓延していて、国のエリートの様な連中が職員として公務員として仕事をしているとも言われ、拠出金の多くが、事務費や人件費として消えていき、本当に困窮している現場が見えなくなってきているとも言われています。拠出金の少しでも多くが、貧しい子供たちの教育に還元されるためにも、教育のユネスコではなく、世界遺産認定機関になり下がってはならないのです。世界遺産を媒体として本業を繁盛させるのならともかくとして、本業が霞んでしまうような営利に関わる事業を優先させるべきではないと思うのです。登録のために賄賂や接待が行われないという保証のないような事業を行うべきではないと思うのです。遺産というものはそれを伝承したいという個人や集団の思いによって守られてきたものであって、観光地となることを望んで保存してきたのではありません。保存には案外新設よりもお金も人手もかかります。保存したいという信念がなければ朽ち果てていきます。それは、日本の文化財保護を見ても分かります。観光収入を当てにした保存は余程有名でないと残り続けられません。ユネスコ文化財を守ることが必要だという子供たちを育てる、教育の機会を保障する活動にもっと専念すべきだと思うのです。逆に、世界遺産の登録料をしっかりとって、そのお金が子供の教育に還元できるようにすべきだと思うのです。

音痴の話

 あることに関して感覚が鈍いことを音痴という言い方をしていた時代があります。今でも、「方向音痴」「味音痴」「運動音痴」「機械音痴」などは時には使われますが、「痴」と言う言葉が差別用語ではないかと避ける傾向にあります。日本の神道には教義がありません。ですから昔話や言い伝えとして物語としての話はありますが、人生の哲学的な言葉や理論的なことはありません。神道は神との意思疎通ですからそんな難しい言葉は必要がないのです。それに対して、仏教は、自然との会話ではなく、人間とは何かをただ考えたものですから、人間の行動分析や心理分析をして、人間の性を善と悪に分けるという試みですから、経典には実にたくさんの人間の行動・心理分析を言葉として説明しています。それをインドの言葉から、中国で漢字に翻訳するときにそれなりに変質し、さらに日本に入ってきて当て字で翻訳された上に、僧侶が説明するときにもまた解釈の違いがありながら社会に浸透しましたから、色々な事情と過程で言葉の使い方や意味が逆転してしまったものも沢山あります。「痴」と言う言葉も、過去に、白痴つまり精神薄弱のうち、最も重度の人をそう表現したことや痴呆症など愚かと言う意味で使用されたことで差別用語とされていますが、基本は、迷う、特定の事柄に疎い事を意味していましたが、決して差別しているような内容ではありませんでした。ですから、愚かと言う意味で使用するなら、愚かという漢字があるのですからそれを使用すればよかったのです。それだけではなく、仏教は愚鈍であることを否定はしてはいないのです。では仏教用語としての「痴」とは何かと言うと、人間には根元的に3つの悪徳があって、一つは、自分の好むものをむさぼり求める貪欲,二つは、自分の嫌いなものを憎み嫌悪する瞋恚(しんい) 三つは、ものごとに的確な判断が下せずに,迷い惑う愚痴があると言い、さらに、6煩悩があるなどと説いていく中にあるのです。仏教の目的は、本人が悟りを開くことでその悟りの境地へ行くことを妨げる精神作用を3悪とか煩悩とか言っているだけで、個人の心理・行動分析にすぎません。悟りは、自分の問題で、自分が目指す精神世界に行きたいと修行するひとのヒントとして自身の悪徳や煩悩が邪魔するよと言っただけで、他者を非難する、攻撃する、卑下する言葉ではないのです。その意味では、音痴というのは、ドだかミだか迷うことがあっても、音階そのものを理解していないということではありません。簡単に言えば、愚痴は仏の教えに対して迷っていることは愚かだと言いたいだけです。お前は馬鹿だとか言うような、相手を評価したり、人格や人間性を否定したものではありません。表音文字は、言葉遊び、言葉イメージが出来る一方で、忌み嫌う言葉狩りも出来てしまいます。日本では、一人の人が生涯に名前を何度も変えることがあるように、漢字表記には言霊思考があって、時には霊力が宿ると信じている人は多くいます。そのような考え方の人からすると、漢字の持つイメージは絶大で、人生までもが変わってしまうぐらいに考えています。例えば、知的障害の前の漢字表記は、精神薄弱で、イメージが悪いと散々非難して偉い人たちが法律用語としては知的障がいとすると決めたのに、今でもが、害の字は、ひらがながいいとか、障碍が良いとか論議していますが、名前をどんなにいじっても、実態は変わっていません。結局、法的・公的支援を受けるのなら法律に規定しなければならないし、法律の用語として定義しているというだけです。法的・公的支援を必要としない人は、障害を証明する手帳も持っていません。漢字表記の、言葉の仏教的意味は、過去の様に宗教が生活に馴染んでいた時に僧侶が自慢げに仏教的説教中に出てきたもので、生活の中で宗教的言葉を引用した教訓が消えてきた今日、日常使われている言葉の中の出典は、仏教用語であることはあってもその意味で使用されること自体が薄まっています。新しい言葉は事実や実態だけを表すようになりその言葉には宗教的背景がなくなり、流行語は世相のみで表されています。表記ですから、当然言霊なんてありませんし、言葉は共有することによってはじめて意味あるものになりますから、悪いイメージの字を避け続けていくと結局平仮名やカタカナ表記が無難となってしまいます。古代中国王朝は、日本を東の端っこに住む野蛮人という蔑称として東夷と呼んでいました。同様に、国内では、関西人による関東人への侮蔑語として東夷(あづまえびす)と言う言葉もありました。漢字表記は、一つの表現にすぎないのに、イメージなんてことばかり詮索するなら廃棄してしまえばいいことです。文学としての表現でも、人を攻撃するために使われる言葉は武器ですが、ある程度の歴史ある言葉は、その言葉そのものが歴史を語ることもあります。何故その言葉を当てたのかが時代と思想と背景を考える手立てにもなります。音痴といわれて嫌だったという思いも言葉を考える手立てになると思うのです。