知ったかぶりの話し

知ってるつもりの思い込みの感覚に、非常識な横やりを入れて覧る試みです

世界遺産より教育ちゃんとやれユネスコの話。

 ユネスコは、国連の教育科学文化機関として、教育,科学,文化,コミュニケーション等の分野における国際的な知的協力(国際規範設定,専門家の国際会議,国際学術事業の調整,情報交換,出版など)及び途上国への開発支援事業を行うというとても良いことをする機関ですが、その活動はほとんどニュースにはなったりしていません。それでも、職員数は2200人ほどいて、単純に年収が400万円程度でも、80億円ほどになるぐらいの人件費が掛かりますが、各国の拠出金で賄われているので過去にも放漫経営で、経費ばかり使っている機関とも揶揄されてはいます。日本は、会費は37億円程度ですが寄付も合わせると50億円ぐらい払っているそうですが、人件費にも足りないぐらいです。寄付金で成り立っているユニセフでは、金というのは勝手に集まるものじゃない。集める努力をしないと集まらないと言って広報や事務費や人件費として寄付金の25%をカットしています。世界には、学校にいけない子供や文房具もない子供が沢山いると盛んに叫ばれていますし、小学校程度すら満足な教育機会に出会えない子供たちがいることも事実です。ですから、誰もがユネスコの活動に賛同していますし、頑張ってほしいと思ってもいます。しかし、今日では、ユネスコと言ったら、世界遺産しか思い浮かばなくなってきている感が広がっています。そして、世界遺産が国内に何個あるかの競争的であったり、認定に力を入れているということばかりが報道されています。では、世界遺産て何と言われたら適正に応えられる人いるのかなと言う疑問が私にはあります。ユネスコの仕事として文化の保存は一つの分野ですが、世界遺産認定活動は、現状を見てみると観光に押しつぶされて本来の保存と言う意味さえ失われつつあるのではないかと危惧するのです。世界遺産に登録されたという群馬の製糸工場跡は、報道された後はその価値を確認することも出来ないぐらいに観光客が一時的に訪れましたが、今では十分見学出来ます。過去の文化財が金になるというのは、イタリアやエジプトなどの多くの事例を見れば分かることではありますが、観光として永続的に金儲けに結び付ける事はそんなに簡単なことではありません。つまり、世界遺産に登録されることが観光資源になり文化財を守る基金も作れるという幻想を登録の目的として、終結するような活動で文化は守れません。本来なら消滅して歴史の中に埋もれ消えていたはずの極一部が、人為的に守られたり、奇跡的に残ったというのが文化財ですが、そこには学ぶべきことがあって残っているのにその学びとは関係ないなら形だけの物なら消滅しても仕方がないものだと思うのです。世界遺産になったから、お金儲けができると思っている人たちは沢山いるのかもしれませんが、世界遺産と言うブランドは今では希少価値もないぐらいに我も我もと申請し認定している現状ではそんな効果も限定的と言えます。問題なのは、ユネスコが片棒を担いで観光地にした文化財を見に来るのは、教育を受けられなかった人たちではなく、観光地を訪れるだけの余裕のある人々であり、貧しい国の世界文化遺産では、見に来る観光客の場で、学校へ行けない子供たちは働いているかもしれないのです。世界遺産の認定のため現地確認にユネスコが派遣する職員の旅費だって文具にすれば何千と言う子供たちに配ることが出来るかもしれないのです。国連は官僚主義が蔓延していて、国のエリートの様な連中が職員として公務員として仕事をしているとも言われ、拠出金の多くが、事務費や人件費として消えていき、本当に困窮している現場が見えなくなってきているとも言われています。拠出金の少しでも多くが、貧しい子供たちの教育に還元されるためにも、教育のユネスコではなく、世界遺産認定機関になり下がってはならないのです。世界遺産を媒体として本業を繁盛させるのならともかくとして、本業が霞んでしまうような営利に関わる事業を優先させるべきではないと思うのです。登録のために賄賂や接待が行われないという保証のないような事業を行うべきではないと思うのです。遺産というものはそれを伝承したいという個人や集団の思いによって守られてきたものであって、観光地となることを望んで保存してきたのではありません。保存には案外新設よりもお金も人手もかかります。保存したいという信念がなければ朽ち果てていきます。それは、日本の文化財保護を見ても分かります。観光収入を当てにした保存は余程有名でないと残り続けられません。ユネスコ文化財を守ることが必要だという子供たちを育てる、教育の機会を保障する活動にもっと専念すべきだと思うのです。逆に、世界遺産の登録料をしっかりとって、そのお金が子供の教育に還元できるようにすべきだと思うのです。

音痴の話

 あることに関して感覚が鈍いことを音痴という言い方をしていた時代があります。今でも、「方向音痴」「味音痴」「運動音痴」「機械音痴」などは時には使われますが、「痴」と言う言葉が差別用語ではないかと避ける傾向にあります。日本の神道には教義がありません。ですから昔話や言い伝えとして物語としての話はありますが、人生の哲学的な言葉や理論的なことはありません。神道は神との意思疎通ですからそんな難しい言葉は必要がないのです。それに対して、仏教は、自然との会話ではなく、人間とは何かをただ考えたものですから、人間の行動分析や心理分析をして、人間の性を善と悪に分けるという試みですから、経典には実にたくさんの人間の行動・心理分析を言葉として説明しています。それをインドの言葉から、中国で漢字に翻訳するときにそれなりに変質し、さらに日本に入ってきて当て字で翻訳された上に、僧侶が説明するときにもまた解釈の違いがありながら社会に浸透しましたから、色々な事情と過程で言葉の使い方や意味が逆転してしまったものも沢山あります。「痴」と言う言葉も、過去に、白痴つまり精神薄弱のうち、最も重度の人をそう表現したことや痴呆症など愚かと言う意味で使用されたことで差別用語とされていますが、基本は、迷う、特定の事柄に疎い事を意味していましたが、決して差別しているような内容ではありませんでした。ですから、愚かと言う意味で使用するなら、愚かという漢字があるのですからそれを使用すればよかったのです。それだけではなく、仏教は愚鈍であることを否定はしてはいないのです。では仏教用語としての「痴」とは何かと言うと、人間には根元的に3つの悪徳があって、一つは、自分の好むものをむさぼり求める貪欲,二つは、自分の嫌いなものを憎み嫌悪する瞋恚(しんい) 三つは、ものごとに的確な判断が下せずに,迷い惑う愚痴があると言い、さらに、6煩悩があるなどと説いていく中にあるのです。仏教の目的は、本人が悟りを開くことでその悟りの境地へ行くことを妨げる精神作用を3悪とか煩悩とか言っているだけで、個人の心理・行動分析にすぎません。悟りは、自分の問題で、自分が目指す精神世界に行きたいと修行するひとのヒントとして自身の悪徳や煩悩が邪魔するよと言っただけで、他者を非難する、攻撃する、卑下する言葉ではないのです。その意味では、音痴というのは、ドだかミだか迷うことがあっても、音階そのものを理解していないということではありません。簡単に言えば、愚痴は仏の教えに対して迷っていることは愚かだと言いたいだけです。お前は馬鹿だとか言うような、相手を評価したり、人格や人間性を否定したものではありません。表音文字は、言葉遊び、言葉イメージが出来る一方で、忌み嫌う言葉狩りも出来てしまいます。日本では、一人の人が生涯に名前を何度も変えることがあるように、漢字表記には言霊思考があって、時には霊力が宿ると信じている人は多くいます。そのような考え方の人からすると、漢字の持つイメージは絶大で、人生までもが変わってしまうぐらいに考えています。例えば、知的障害の前の漢字表記は、精神薄弱で、イメージが悪いと散々非難して偉い人たちが法律用語としては知的障がいとすると決めたのに、今でもが、害の字は、ひらがながいいとか、障碍が良いとか論議していますが、名前をどんなにいじっても、実態は変わっていません。結局、法的・公的支援を受けるのなら法律に規定しなければならないし、法律の用語として定義しているというだけです。法的・公的支援を必要としない人は、障害を証明する手帳も持っていません。漢字表記の、言葉の仏教的意味は、過去の様に宗教が生活に馴染んでいた時に僧侶が自慢げに仏教的説教中に出てきたもので、生活の中で宗教的言葉を引用した教訓が消えてきた今日、日常使われている言葉の中の出典は、仏教用語であることはあってもその意味で使用されること自体が薄まっています。新しい言葉は事実や実態だけを表すようになりその言葉には宗教的背景がなくなり、流行語は世相のみで表されています。表記ですから、当然言霊なんてありませんし、言葉は共有することによってはじめて意味あるものになりますから、悪いイメージの字を避け続けていくと結局平仮名やカタカナ表記が無難となってしまいます。古代中国王朝は、日本を東の端っこに住む野蛮人という蔑称として東夷と呼んでいました。同様に、国内では、関西人による関東人への侮蔑語として東夷(あづまえびす)と言う言葉もありました。漢字表記は、一つの表現にすぎないのに、イメージなんてことばかり詮索するなら廃棄してしまえばいいことです。文学としての表現でも、人を攻撃するために使われる言葉は武器ですが、ある程度の歴史ある言葉は、その言葉そのものが歴史を語ることもあります。何故その言葉を当てたのかが時代と思想と背景を考える手立てにもなります。音痴といわれて嫌だったという思いも言葉を考える手立てになると思うのです。

農薬は悪人で、化学肥料は普通の人なんてとんでもないの話

 誰もが作物を作るなら、農薬は少なく、肥料はたっぷりと思いこんでいます。それは、昔から肥料は絶対に必要なものだと信じているからです。焼き畑農業だって草木を焼くことで肥料となったからとか、ナイル川の氾濫で農地に上流から肥料が運ばれて肥沃な土地だったからエジプトは栄えたとか、肥料は大切、重要と習い続けています。だから化学肥料と言われても、疑り深そうな人でも普通のこととしか思っていません。でも、農薬であろうと化学肥料であろうと人が作りだしたものであることでは違いはありません。植物は、太陽と空気があれば、無機質を要素として生育しますから、代替する太陽が見つかれば、無機物だけを水に溶かして与えれば、イチゴの水耕栽培も、植物工場での栽培も出来ます。その無機質と言うのが、植物の三大栄養素の窒素、リン、カリウムを指していて、この三大要素を、化学的工程を使って無機質原料から作られた肥料が化学肥料と言われています。化学肥料の原料は、石油・石炭などのエネルギー原料と、リン鉱石、カリ鉱石などで、国産の原料はほとんどなく、輸入に依存しています。実際の化学肥料の中身は、硫酸アンモニウムや塩化カリウムなどに変化していますが無機化合物で、尿素や緩効性肥料などは有機化合物ですが、これも化学的工程で作られるため化学肥料の仲間です。ですから、科学者の中には、化学肥料の成分のアンモニアや硫酸は天然の物質と同様だから、問題はないという方々もいます。しかし、化学肥料の中のチッソは畑作地の地質や含まれる自然の化学物質等に、酸素が多いと化学変化し硝酸態チッソと呼ばれる発ガン物質ともなります。他にも、化学変化で、硫酸や塩酸をつくることもあり土を酸性化します。もし、多いほどいいと過剰に施肥するとそれらの物質が、作物に残留したり、地下水を汚染したりして、ミミズは死に、微生物も激減します。ですから、化学肥料を継続的に使用している土地では、耕してもミミズなどの昆虫がでてこないことになるのです。そして、農業を始める人の定番事のように、酸性化した土地を中和するためにセメントの原料でもある消石灰を撒かなければならないと説明しますが、土は固くなります。今度は、固くなった土を柔らかくするために土壌改良剤が必要と、肥料を使ったことの後始末に次々と手を打たなければならなくなります。それならば、流行の有機肥料がいいと言い出す人もいるのですが、実は案外誤解されています。肥料と言うのは実は法律で規定されていて、有機肥料って何と言われて思い浮かぶ、たい肥・米ぬか・家畜ふん尿・下水汚泥などは法律上は、特殊肥料に指定されていて有機肥料とは言わないのです。ですから、有機肥料なんて表示されている原料のナタネ油かす、骨粉などは実はほとんどが輸入品なので、価格が高いだけで意外とその中身が何で有機なのか検討されているとは言えません。その辺までは、「肥料の品質等を保全し、その公正な取引と安全な施用を確保する」と言う肥料取締法の範囲の話なのですが、肥料の必要性は、以下のように説明されて誰もが納得していることに落とし穴があると思うのです。それは、簡単な計算として、農作物を収穫して持ち出せば、当然土壌の養分が不足して収量が低下してしまうので、養分を補うために、古くから山林・原野の野草や下草、人間や家畜の排泄物、マメ科植物の緑肥などが使われてきたように、収穫として引き算をしたなら、補給としての肥料を加えなければバランスが取れないという収支計算書による肥料説です。その為には、安くて農家が使いやすい形状で簡便で効果が高いものが研究され出来てきたのが化成肥料だということです。実際日本の水稲も肥料によって現在の高い収量が支えられ、肥料がなければ、米を安定して多量に生産することはできません。もし、この説が正しいのであれば、こんな仮説を立てることが出来ます。仮説「雑草が素晴らしく繁殖している土地は、雑草を刈り続けていけば土地は養分を失って雑草はやがて生えてこない」となりますが、実際はそんなことは起きません。植物はちゃんと植物間で物質の交換をしていますし土地にあった植物が交代して繁茂していきます。つまり、この計算式は自然ではなく、人間が欲しい収穫のためには、必要な収穫のための肥料が投資されなければならないというだけなのです。野菜は家畜と同じように既に人間が作りだした性質の物で人間の保護と育成によってしか人間の期待値にならないということなのです。ですから、肥料という考え方は、植物に必要なものではなく、人間が期待する収穫なり生育のためには必要なものなのです。硝酸は作物の肥料としては欠かせない成分と人間は考えていますが、これを多量に含む飼料を食べた牛は酸素欠乏状態になり、生後間もない人間の赤ちゃんがミルクや汚染された地下水を飲むと血液が青くなるブルーベービー症を引き起こすことが知られています。この他にも、濃度障害や塩類集積などが発生しています。その為、施用量より少ないと収量が低下し、多過ぎると作物の品質が悪くなったり、環境に影響することがあると明示されてもいます。肥料中の養分が作物にみな吸収・利用されれば環境への悪影響は少なくなるとも言いますが、土の中の肥料の吸収など、専門家だって簡単に理解できるものではありません。過剰にまかれた肥料は、作物には吸収されず、環境の中で化学変化したり、周りを富栄養化したりしています。化学肥料も農薬と同じと言うことはここにあります。価格が安い化学肥料だから、多いほどいいと思っている使い方で実は、環境を悪化させているのです。農薬は、植物の敵を退治する正義の味方だけど人間の体にも悪さをするので少しでも少なくして、肥料は植物の栄養だから少しぐらい多くてもいいかと思っていたならそれは大きな間違いです。肥料も人間が欲する収穫を野菜に課するためには必要ですが、植物自身は、その土地にあった養分を吸収して生育し、どんな栄養もなさそうな路肩でも、荒れ地でも、土地を開拓していきます。

 

耳にタコのうんざりする保健指導の話

 年に一度の検診がありますが、もう少しデーターを集めようとお金が掛かりますが、年齢も高いので人間ドックの方を選んで連続して同じ病院で受診しています。今回は、胃の検査バリウムは右向け、上向け、三回転しろと言われるだけでなく、逆さま状態になったりと年寄りには大変なので、なにもしなくていい胃カメラを選択してみました。が、これが大失敗。ゼリー状の液体を喉に溜めて麻酔をするのですが、嘔吐には何とも効き目がありませんでした。カメラを入れた時から下っ腹から来る嘔吐の津波に襲われて、近年流したこともないぐらい悲しくもないのに涙がボロボロ。口はマウスピースを咥えていますから話すことは出来ず、ただただ涎が、だらだらという状態。目の前に液晶パネルが置かれているので胃カメラが入っていくのが鮮明に見えるのですから大腸検査の時のようにじっくりと鑑賞にふけりたかったのですが、カメラが動くたびに、胃からではなく、大腸からの如く全身を使ってグッゲッゲッゲゲーと吐き気がやってきます。看護師は、肩の力を抜いて、といたって冷静に言っているのですが、こっちはそれでも大げさなのかなと恥ずかしい気持ちで何とかここは我慢しようとするのですが、何せ体は言うことを聞いてくれない。本気で、もういい止めてクレーと全身で訴えてみましたし、目つきはもっと懇願した目立ったはずですが、胃カメラに集中している医師には、全く伝わることもなく、涙と涎をダダ漏れさせながら、グッゲゲッゲゲーとやっていると、再び看護師に動くと機械が壊れちゃいますから動かないでくださいときっと優しい声だったのですが、尚更に緊張してしまいましたから、力を抜いてと肩を摩られても息絶え絶えでした。そうこうしているうちに、ポリープの生検を取ったので終わりかと期待していたのに、再び看護師が「少なくありませんか、もう少し」と言う声が聞こえた途端、グッゲッゲッゲゲーと大波の吐き気がやってきました。グゲッゲッゲゲーッとしている向こうで医師が「なんとか」と言っている言葉に、本当にすがりついてしまいました。胃カメラを抜いてくれるまでの哀願から抜けた途端に大後悔がやってきて、バリウムの方が良かった二度と駄目だと密かに叫びを繰り返しているのに、大人として、ペコペコと御礼を言いながら検査室を出る始末です。元々、自分の指を口に入れても、歯ブラシを入れても嘔吐しそうになるし、歯科治療で入れ歯を作ってもらい新品で調整したにもかかわらず、3分も持たずに嘔吐してしまうぐらいで、歯科医師から呆れられてこれ以上は治療できませんと断られた経験者でもあるのですから致し方ないとは思ってはいましたが、想像以上に疲れ果ててしまいました。

 そんな気持ちでしたから、その後の内科検診と保健指導では、口も体も自由だったのでついつい反発してしまいました。さすがに大学病院と感じる如く、血液検査から、頭部のМRĪ、腹部のエコー等々今日の検査の結果を男性の内科医は、画像に見せながら説明をしてくれます。そして言うのは、内臓脂肪と肥満、そして糖尿病の話。とにかく運動しないとだめだと言います。はっきりと運動はしませんと断言したうえで、言っていることはわかりますが、生活習慣を変える気などありませんと言うと、医師の沽券を傷つけられたかのように検診内容が如何に悪いか素人に分かるかと畳みかけてきます。半分言い合いになってきたので挑発的な言葉を止めて急に、ハイハイと言い出すと、流石に医師もこいつ聞いてやしないと思ったのか型どおりに戻るかの如く終了。にもかかわらず、最後の保健指導へ行くと、振出しへ戻って、検査値が悪いので、炭水化物を抑えて、朝食を食べて、運動して、と言い出すから自分の人生自由にやります、生活を変える気は全くありませんと言うと今度は、糖尿病になったなら失明とか両足切断とかになってからでは遅いと不安を煽ってきます。テレビの医学番組から、健康番組まで、疾病の怖さと不安をあれほどやっていても生活習慣を変えない人が多いから政府広報のように繰り返しやっていることのコピーのごとに指摘されてなるほどと生活習慣変える人がどれほどいると信じて話しているのかなと目の前の保健師さんが少し哀れに思えてきました。自分の人生のリスクを医療関係者と言えど疾病になる予測を語られたとしても現実に疾病ではないのだから身に染みるわけがないと思うのです。例えば善行を積まなければ地獄に落ちるとか、輪廻転生でダンゴムシになるとか脅されても嫌だとは思っても現実としては自分は免れるかもしれないという淡い期待の方を選択してしまうというのが普通だと思うのです。交通事故に合うかもしれないというリスクがあるから、運転には気を付けようとは思っても、運転を止めようという決断まではせずに、生活は現状維持が普通だと思うのです。わざわざ、人間ドックにいったのは現代の医学技術の範囲で、自分の体の状態の確認をしたいということであって、長生きのために行ったのではありません。私が、欲しいのは、検査結果としての数値であって、生活改善の指針ではありません。なぜなら、もし、疾病になっていたとするなら原因は、自業自得な生活にあることは自覚していますし、正に自己責任で手遅れなのだとも観念しているからです。運動をして、睡眠を十分とって、ストレスのかからない生活をしていたって、もう年齢的に限界は近づいていますし、取り返しは付かないのです。それに、健康にどれだけ気を付けると云ったって、食べ物一つをとっても、農薬や添加物、加工食品の毒入り食材しかない時代なのです。企業は、法内と説明しているのは、使用していないということではなく、少ないと言っているだけです。しかも、行政がお墨付きを与えている基準値そのものが、本当に正しいか誰もわからないのです。何せ人間の薬は、人間で多少実験しますが、農薬や添加物、放射能なんて動物実験までしか出来ません。ですから、行政の言っている基準が正しいかどうかの人体実験を現在実施中と言うのが実態です。蓄積と言うことを考えればいつ曖昧な基準値が体内で超えるかもしれないのです。この人類が初めて出会う高齢社会で、内科医も保健師も見たことのないことが現実には起きているのです。なんて話をしたかったのですが、内科医と保健師の、本題は、「このままだと、医療費の掛かる人間になる。だから医療費がかからない人間になるように努力しろ」と言うことなのでどうせすれ違いの話になるのでまたまた、ハイハイ人間になるとすぐに話は終わりました。でも言いたい、デブを見るたびに、疾病で脅して生活を変えろなんて話をしても、耳にタコのうんざりするほど聞いている内容で話したのでは、生活環変えないよと。

でん粉人間の話

でん粉は、ほとんどの植物に存在する大事な要素ですから種類も豊富です。身近な、トウモロコシから抽出するとコーンスターチ、じゃがいもだとばれいしょでん粉、さつまいもだとかんしょでん粉、キャッサバを原料とするとタピオカでん粉などありますが、日本では、8割がばれいしょでん粉で片栗粉とも言われて販売されています。でんぷんは水に溶けず、比重も重いので、植物を磨り潰して、水に晒すと底に白く沈殿します。沈殿するから澱粉とも言われています。沈殿物を乾燥させると白色の無味・無臭の粉末となります。その粉末を水とともに加熱すると、でん粉は吸水し、膨潤して、糊状になり、冷却すると、白濁したりゲル化します。でん粉は、現在では、異性化糖や水あめ、ぶどう糖などの甘味料(糖化製品)の原料になるほか、水産練製品、菓子類、麺類、ビールとさまざまな食品にも使用されていますし、錠剤などの医薬品や、製紙や段ボールなどの工業用を含め、その特徴を生かしながら身の回りにあるさまざまな物にでん粉が利用されています。つまり、澱粉は、多くの植物の中に質・量の違いは大きいのですが、どこにでもあって、現代の生活の隅々にまで行き届いた原材料でもあるのです。でん粉の性質と言われれば、熱を加えた糊状の反応が一般的に知られていますが、もう一つの性質は、ダイラタント流体と言う事です。でん粉代表の片栗粉と水を1:1くらいで混ぜ合わせたものを、そーっと流すと、水のように流れますが、これを強くかき混ぜると、ぎゅっと締まって流れにくくなります。グッと掴むと固まり、力を抜き手を離すとドロドロな液状になります。この様な、液体の状態から固体に変化する現象のことをダイラタント流体と言うそうです。ですから、先の片栗粉は、強く握り絞めれば、団子のように丸まっているのに、手を開いて載せただけにすると、ドロドロと流れてしまいます。料理をする人なら誰でもが知っている現象ですが、解説となるとやっかいなのです。何でも、この現象が起きるのは、非ニュートン流体の一種ですとなってくると簡単な説明ができるほど理解できません。ただ、なんででん粉の話をしているかと言うと、最近の人間がでん粉のこの性質に随分似ていてまるで「でん粉人間」といったほうが特徴を適切に言い表していると思えているからです。具体的に云うと、面接等では、無色無臭でそれなりの履歴もあり、個性もある人ですが、何らかの思想信条的なものを持ち合わせている風でもなくて、宗教的な雰囲気も全く感じられないなど、こちらからすると、正に白くて、粉のようにふあっとしていて、何かに染まっていず柔軟性もある感じですから、でん粉の白い粉で、無味無臭な感じなのです。ところが、入職後に組織の在り方や対応方法を水の如く注入すると、初めは吸収しているように見えるのですが、途中から突然に、ダイラタント流体の如く、仕事のことなのに強く推すと、固まってしまい受け入れようとしないばかりか案外簡単に拒絶します。でも、話を世間話的に戻すと、後引くこともなくどろどろと流れてしまいます。世間話ならどこを突いてもタプタプなのに仕事の専門性になると、どこを突いても頑なに自己主張しますしなかなか曲げません。組織を拒否しているのではないのですが、混ざることはあっても溶け込まないのです。一時流行した、自分探しなどと言うような浮遊性もないし案外しっかりしているのですが、保っておくと確実に底に沈殿しているのです。立身出世と言う言葉は既に死後のようになりましたが、過去には、肩書が付くということは職場では大きな意味がありました。しかし、人材不足の今日では、何の努力もしなくても肩書をお願いされるようになりました。就職して1年もしないのに店長になったなんてことも多くあり、逆に肩書を付けられて責任を押し付けられるのなら、いらないという人も増えてきています。そればかりか、福祉の世界では、出来なくても役付けにしてでも辞めさせないことの方がまかり通る時代にもなってきました。組織として、人材育成は急務だと言いながら、実態は「でん粉人間」がだんだん増えて、理念も経験も技能もコーチングしようとしても断られ、普通がいいと言われてしまいます。植物なら誰もが持っているでん粉、今日の人間社会の必需原料として生活の隅々に活躍しているでん粉、どこにでもあって個性も持ち合わせているのに、溶け込むことはせず混ざるけれど何かをさせようとすると固くこだわり、自由にさせればどろどろと流れていく、そしてちょっと目を離していると、沈殿しているのを見ていると、やっぱり「でん粉人間」なんじゃないかと思えてくるのです。

擬人化した隣国と仲良くは一方通行の話

 テレビのコメンテーター達は、韓国の事になるとみんな揃って隣国なんだから仲良くすべきだと話します。しかし、世界を見渡せば、隣国と仲良くと云うのは幻想で、隣国だからこそいがみ合ううというのが現実です。実際、理由はともかくアメリカは、メキシコとの国境に壁を作っていますし、インドとパキスタンは、カシミールを巡って部分戦争状態を何十年もしています。アフリカでは、内戦という隣人同士の戦争も起きています。中東ではイスラエルと隣国は繰り返し戦争行為をしています。にもかかわらず、韓国とは隣国なのだから仲良くと言っているコメンテーター達も、ロシアと仲良くとは言いません。コメンテーターが口を揃えて、仲良くしたい隣人は、ロシアや中国では無いのです。その理由は、ロシアや中国は、社会・共産主義国という社会体制で長く日本の仮想敵国だからです。そして、ロシアに対しては、第二次大戦の終わりになって不可侵条約を一方的に廃棄して漁夫の利的に日本に被害をもたらせたという恨みつらみを言う人もいますから、ロシアとは、領土問題だけでなく、第二次大戦の終結もしていません。第二次世界大戦後日本は戦争に加担はしても実戦はしていませんが、世界では戦争が繰り返し起きています。そして戦地になってしまうと、住民が生活していようと、軍事的に踏み荒らされ占領されたりしてしまいます。ゴラン高原は占領されたままイスラエルに合併され、クリミアはロシアに合併されました。仲良くしたい韓国は竹島を韓国軍が占拠しています。隣国と仲良くの実態は、軍事的なパワーバランスによる大きな固定化の中で、小さないざこざが繰り返されていることに対して、同盟という仲良しグループなのだから、仲良くしようと言っているにすぎないのです。様々な条約があってもなくても、戦争は起きますし、隣国だから問題は発生しているのです。にもかかわらず、人間同士の付き合いなどと言う日本国内で慣習化されている曖昧な言葉で国の利害関係とすり替えてしまう外交ばかりの日本はいつも後ずさりばかりすることになるのです。団体と団体の利害関係の中に、個人と個人の人間関係が存在するかの様な錯覚を持ち込むことは危険なことです。一人一人はみんないい人かもしれませんが、集団になってもいい人なら人間同士の戦争なんて起きていません。人間は個人よりも集団を大事にし、集団になると狂気も巻き起こしてしまう存在なのです。ですから相手はどんな集団を形成しているかと言うことが大事で、人間同士などと日本的道徳的態度にみんなが成れるなどと言うことは情勢を見誤る原因としかなりません。日本的外交では首相でも絶対に許されないちゃぶ台返しの如く壊してしまうトランプ氏を外交として非難すればいいのに日本の外交は何も言えないのです。日本流のコツコツ積み上げてきた実績などと国民に説明している足元から、ひっくり返されているのにパワーバランスの下位国家の外交は黙って国民には内緒の裏工作に必死にしがみついているしかないのです。日本の外交が駄目だという事は、内々の含みみたいなこと、腹の探り合いなんて外交しているから、こんなはずではなかったばかりになるのです。隣国と仲良くは、倫理や道徳では無く利害の状況で決まっているのです。心情的なこととは関係なく、国際的な利害で情勢が流動的に動いているという事をもっと明確にすべきです。問題があるから仲良くできていないのに、隣同士なのだから仲良くするのが当たり前だなどと言っているような外交官僚の甘い情勢分析が実効支配を許してしまうこともあるのです。仲良くで問題を曖昧にすべきではありません。力の強い方が結局押し切るのです。最近はマスコミ等が使わなくなりましたが、死の商人は今でも健在で、商品の武器を豊富にそろえて購入者を待っています。どんなに平和な憲法を持っている国にもちゃんと販売しています。戦争の原因は当事者よりも裏で利益を得る人によると言う事は普通のことです。過去には、日本の学生運動が過激となるように資金援助したのは、右翼的資金を持つ人たちだったという話もありました。確かに、過激になって国民が嫌になり法整備が簡単に出来て、取り締まりが容易になったと言われれば都市伝説の様な感じですが、そんな罠みたいなことを過去のアメリカCIAは世界各地で実際にやっていました。テロ防止と言って中東やアフリカでアメリカが始めた戦争で難民が大量に出て沢山の国が困っていても、利益を得ている人がいるということも事実です。コメンテーターを初めとした日本の官僚は、お互いが言うべきことを言うだけでは交渉は成り立たない、落としどころが必要だと言うのですが、歴史の過去をうんざりするほど言い続ける国との交渉が適切に出来なければ、北朝鮮の戦後賠償も、ロシアの戦後賠償も掘り返される大変なことになりかねないのです。いつまでも、世界の大国のつもりで隣国を見るのは止めた方がいいと思うのです。あたかも兄貴分の様な態度で隣同士なのだから仲良くしょうよと言うコメンテーターの言葉には、見下したような感覚が見て取れます。隣国と仲良く出来る政治・経済の環境を作るのは、仲良しグループだからではなく利害をもっとはっきりとすべきですし、一方通行ばかりのテレビ解説も一段落して、問題課題を真摯に取り上げていくべきだと思うのです。

獣の雄の論理で性犯罪者に味方する裁判官の話

 法は正義ではありません。裁判官が、過去の判例に則ってしか判決が出せないのなら、AIに任せた方がましだという判決が出ました。記事では、名古屋地裁岡崎支部の鵜飼祐充裁判長が、娘と性交した父親に娘が抵抗できない状態にあったとは認めず、無罪としたというものです。内容はと言うと、娘が嫌がっているのに実父が性交を5年以上強要したというもので、普通に考えれば、強姦同然なのですから、犯罪そのものなのに、法律解釈の末に雄の論理を根底に持つ裁判官は無罪としたのです。江戸の奉行大岡裁き風なら、実父を畜生道に落ちた雄の狂気としか言いようがないと一刀両断で済むような事が、現在の法律をこねくり回して、無罪としてしまったのです。検察は「中学2年生の頃から性的虐待を受け続け、専門学校の学費を負担させていた負い目から心理的に抵抗できない状態にあった」と主張したのに対して、弁護側は「同意があり、抵抗可能だった」と反論していた裁判で、この裁判官は、「性交は意に反するもので、抵抗する意志や意欲を奪われた状態だった」「抵抗を続けて拒んだり、弟らの協力で回避したりした経験もあったとして」、娘の同意はなかったと認定しましたが、抵抗は可能だったという弁護側の主張は認めるのです。その認める理由が、「以前に性交を拒んだ際に受けた暴力は恐怖心を抱くようなものではなく、暴力を恐れ、拒めなかったとは認められない」「被告が長年にわたる性的虐待などで、被害者(娘)を精神的な支配下に置いていたといえるが被害者の人格を完全に支配し、従わざるを得ないような強い支配、従属関係にあったとまでは言い難い」と言い出し「抗拒不能の状態にまで至っていたと断定するには、なお合理的な疑いが残る」として被害者が抵抗不能な状態だったと認定せずに、無罪判決を言い渡したのです。まずこの裁判官は、中学2年の実の娘と性交すること自体が虐待であって犯罪だということが理解できていません。さらに、拒否に対する実父の暴力を、恐怖を抱くような暴力とは言えないと否定するのです。こんな裁判官は、人に殴られればいいとしか思えません。恐怖感の度合いは状況で全く違います。家庭と言う密室で実父に性的虐待を受けている娘にさらに暴力と言う虐待を加えることは、複合的攻撃であって恐怖どころか絶望と自暴自棄に追い込んだと考えるのは普通の事です。家庭から未成年が逃げ出せないという条件の上に、簡単に人に話せない実父との性交問題を抱えさせられた挙げ句に暴力まで受けている女の子に、暴力を恐れず抵抗しなかったお前が悪いとこの裁判官は言い放つのです。さらに、精神的な支配に置かれてはいたが、強い支配・従属関係とは言えないと言うのです。経済的にも、精神的にも、身体的にも保護されなければならない年齢で、保護する義務のある実父が娘に虐待を繰り返していても、奴隷の如く自由を奪われ拘束されてもいないのだから、実父の支配下には無いとこの裁判官は言い放つのです。父親に家族が、支配されたり従属していることそのものが否定されなければならないのに、裁判官は問題があるほど強くないと言い出すのです。程度問題ではなく、家族関係において支配や従属があること自体を否定しなければならない立場の裁判官が、支配・従属関係があっても人格を完全に支配し、従わざるを得ないような強い支配でなければ、娘を強姦しても犯罪ではないというのです。実父との性行を拒否して暴力を受けていても支配されていないというのです。実父の支配とは、家族が従属しているとは何かとするなら戦前の家父長制しか考えられません。さらに裁判官は、虐待を繰り返す父親に対して、娘には他者に訴えるとか、助けを求めることの出来る自由があったのにそれを実行しなかったことは、娘の落ち度でもあると確定してしまうのです。つまり、裁判官は、娘にはこの虐待から逃れるべき方法はあったのに、ずるずると関係を続けていたのは、娘にも非があるという考えに固執するのです。被害者を守るという視点はどこにもありません。それは、加害者に寄り添った獣の雄の論理の視点だけだからです。

 日本の刑法論争となれば、性交では被害者が同意していなかったということだけでは罪にならないとか、2017年の刑法改正により親から子どもなどへの性的虐待を処罰する「監護者性交等罪」も導入されているとか、本人が19歳で訴えたので、罰する法律が無いとか法律の専門家は言い出します。しかし、法が正義であるならあらゆる法律を掘り出してでも罰することが出来なければ法の裏をかいた犯罪者はいつも無罪になり被害者には一矢も報いることが出来なくなってしまいます。無罪と言う事は、何年にも亘った被害者の被害事実はあるのに、加害者には加害してはいなかったということになってしますのです。公が犯罪を罰する権限を持っているのは、被害があったことに対して私的報復を許さないという観点から公が行うものですが、時代劇ドラマの仕置き人の如く、公が裁けないなら私的報復も許されるとなっても仕方のない判決と言えます。この事例では、虐待は存在し、被害者が存在し、加害者が判明しているのですから、無罪という判決は絶対にないと言える裁判でゼロ回答をした裁判官は普通とは言えません。こんな裁判官にかかってしまうと、被害者が、絶望して、自暴自棄になって被害を我慢して耐えていたなら、それは受け入れていたからだということになるのです。同意がない性交と認めた段階で犯罪としての要件は一つ満たしているのに、抵抗しなかったという要件を満たしていないから認めた要件さえも無効にしてしまうのは、被害者を救済しなければならないという裁判そのものを否定しているようなものです。完全に拘束されて外部との連絡も取れず、死ぬほど身体に被害を受けて、ロボットの如くコントロールされていなければ、抵抗は出来ると言い張るのです。だから、同意はしていないが抵抗していないのだから、受け入れていたということで無罪としてしまうのです。性交の場面での、消極的な抵抗は積極的な拒絶ではないという思考は、獣の雄の論理そのものです。今日では、畜生道にも劣る行為なのに、それを支持している裁判官がいるのです。法的解釈が自分に都合がいいと、その判例を崇めるような事もありますが、法は結構不備だらけで道徳としては、欠陥ですし、社会の常識としても欠陥は多くあります。その欠陥を修正できるから、裁判官であるのに、欠陥を増幅させる判断をするような裁判官は、欠陥裁判官としか言いようがありません。性犯罪では、獣の雄の論理を深層に持っている裁判官は排除すべきです。そうでないと公正な判断は出されません。実父は、娘に虐待をしたということよりも、性交は、娘の同意のもとだったのだから無罪と言うお墨付きをもらったと吹聴することが出来てしまいます。すると、娘はこの後もずっと非難と軽蔑を受けるような生活をしなければならないという加害を受け続けなければならなくなることは容易に想像できます。犯罪者の更生のための裁判で犯罪者を増長させ、被害者にさらなる加害が起こることも予測できないような裁判官は、自分が他人の人生の加害者となってしまうことがあるという自覚は出来ないのでしょうが、そんな裁判官を業務評価するシステムは日本にはないのです。