知ったかぶりの話し

知ってるつもりの思い込みの感覚に、非常識な横やりを入れて覧る試みです

天上を見つめての話

 カーテンが閉められて、一人になった。案内されたベットで、着替えてごろり。明日は手術。やることも無いからボッと見る天上の電気は無性に眩しい。横を見れば窓の外、青空が見えて雲が動いているとただ視覚的に確認する。カーテンのヒダさえも、飛ぶ鳥の様に見える。そんな、感情的になるほどのものでも無かったのですが、やっぱり明日は手術だとなると、まるで悲劇が訪れたように自分をそっちへそっちへと向かわせる気持ちが湧き上がって来ているなと思うと、本当の病気の人はもっと遙かにもっと、精神的に押しつけられるのだろうなと思いました。私は、老人になったのに自覚が足りなくて、いわゆる脱腸になりました。左の鼠径部に時々玉が出てきて、やたらかたらと腸の動く音が鮮明に聞こえるようになったのです。もしかしたら癌なのかと思うときもありましたが、医師は軽く、脱腸と宣言したのです。後は、手術するか、そのままほって於いて最終腸閉塞になる様な状態で手術するか、好きな方を選んで下さいと、ボールを投げられたら即座に手術しますとしか言い様がありません。それからは淡々としたもので検査があり、手術日が決まり、感傷的になれる状態も無く、慌ただしくこの日を迎えて、ベットに寝転んだらその気になったという流れです。入院・手術は初めてではありませんでしたが、病棟の雰囲気も随分変わったなと感じました。長期入院は御法度の時代部屋主のような人などいません。手術後に一日だけ入った部屋の対面側の人の話を術後の痛みに耐えながら聞こえてくるので聞いてしまいました。一人暮らしの男性で脳梗塞で倒れ救急車で運ばれて数日、急性期としての対応は終わったので、リハビリ病院があるからそこへ移る手続きをしなければならないと、ワーカーに言われています。本人は、そのままにしてきたアパートの事情を話していますが、側にもう1人いるのか、もう二階の部屋で階段上れないでしょときつめの声も聞こえてきます。本人があそこ知っている老人ホームの名前を挙げて、そこへ行くよ。と諦めたように言ったのに、即座に、そこは無理、順番待ちだから、まだ介護認定も受けていないしと制度上でばっさりと言われています。そうなんだよね。福祉の制度複雑だし、聞く限り生活保護を受けていたのだろうか身内も無く暮らしてきて倒れてみれば、気持ちの整理や感傷にボッとしていることも出来ないまま次の生活を決めなければならないのです。今の福祉は自己決定が原則なので、制度の理解も無いままに言われるまま結局、行くしか無い年寄りがそこにいるのです。麻酔も切れてきて痛いので、目を開ければ天上石膏ボートの柄でさえ、年寄りの目に似ていたりしました。部屋は、4人部屋でしたが、カーテンが閉められてプライバシーが守られているのですが、音は容赦なく入ってきます。天上を見つめながら、ぼんやり聞いていても、他の人の病状や疾病が何となく想像する事が出来ます。やっぱり自分が一番の軽症に思えて、自分ではどうにもならない病気に罹った人がこの天上とどんな話をしてきたのかと思うと、痛いのですが声だけしか聞こえない環境で良かったなとも思いました。もう一つ、声が筒抜けだと面会者がいる人との差はとても大きいと感じました。他愛の無い話でも案外聞こえてくる環境の中で、年老いて一人暮らしの中での入院、刻んだ人生のどこかに思い当たるような面会者の言葉が、天上の石膏ボードの図柄を替えてしまうのかなとも思いました。手足を動かしても、体位を変えても寝具は、音を立て、身体が発する咳もオナラも、特別大きく聞こえます。そんな音さえも気になってしまうぐらい刺激が限定された環境ですから、小さな音にも妄想でもしていないと何も出来ない身体には時間がゆっくりなのです。若いときは、痛みと闘ってこそと思っていましたが、年取ると少しでも痛くない様にと、脱腸の手術程度なのに天上に訴える日々でした。

鯨食べられるの。の話

 日本の外交は、戦前は軍隊に統制されて、戦後は産経省等の経済関係省の統制を受けていますが、鯨の国際会議から脱退した話は、外交できない外務省いらないかなと思われる出来事です。鯨の商業捕鯨を再開したい人達の政治力は素晴らしくどこにそんな力があったのか教えて欲しい限りのパワーです。国際組織から脱退できる位の政治力を日米地位協定に活用して対等の関係にしていただけるなら多くの人が喝采するものですが、エゴ丸出しの様な使われ方には驚きです。さらに、この脱退の根拠に使われている捕鯨は日本の食文化を守るためだという理由に対して、なるほどという日本人は今日では極まれで、そうかなーと疑問を呈する人の方が多いと思うからです。そして、鯨肉に接したことさえない日本人の方が多いと実態を知っている世界の人は、食文化と強弁する日本を、説得力無いといっています。和食を世界遺産に登録する時にも、鯨料理は絶対に欠かせないと主張したわけでもありません。一部の地域にとっては、伝統的な食文化であり食生活の一部である事は事実ですが、それを日本の食文化であるとまで押し上げるには無理があると思うのです。水産物というのは、家畜のように原材料費つまりえさ代も設備費も掛かりません。野生で育った魚を狩りに行くだけですから丸儲けとも言えます。しかも、日本近海で捕鯨するというのですから、遠い南極まで行く燃料費よりも相当安く済みますし、獲りたてを豊洲に運んだ方が、高く売れるかも知れません。近海なら、船も小さくて済むし維持費も少なくて済む。さらに、今では魚探知機が発達していてもマグロのように釣るとなれば大変ですが、見つけ次第強力一発百中のモリを打ち込んで仕留めるのですから案外儲かるかも知れません。もう一つ、強行に捕鯨に反対している英国などは、過去にクジラの脂肪を燃料として使用するだけに散々捕鯨をしていたくせに今になって反対するなんてと言った感情もあると思います。まさに、犯罪を犯した人が、犯罪を犯しそうな人に説教しているような感じで、おまえに言われたくないよの感覚があるかも知れません。今の中国が温暖化問題で、先進国がさんざん汚しておいて後から始めた途端に止めろというのはおかしいと言っているのと似ています。そんな事情があったとしても、強力な政治力を使うほどの事なのかという疑問は残ります。しかも大手の水産会社は、商業捕鯨を再開しないと言っています。なのに、商業捕鯨になれば、広告も出来て、鯨を食べる人を増やすことも出来ると関係者の話しとして報道されましたが、鯨が商業として成り立つほどに販売できるとは私には思えないのです。何故なら、ほ乳類の肉は改良しないと食べにくいということがあるからです。定着している豚や牛の改良は非常に進んでいます。羊は改良の遅れで北海道等の地域食文化としては有名ですが全国的ではありません。野生の鹿もイノシシも話題にはなっても、中々定着しないのは、均一の肉の確保が出来ないからでもあります。家畜は、基本、改良によって、均一な製品の確保と購入者の好みに合うように改良されているから、商業として成り立っているのです。つまり、一般の人の食生活に組み込まれていなければ、商業としては成り立たないということです。美味しい牛肉に慣れた人が、野生の鯨を定番的に食べるとは思えないのです。では、鯨の養殖が可能かというとそれも出来ません。えさ代だけで無く、養殖場の確保は困難です。とにかく鯨は魚類では無く、ほ乳類なのです。牛より大きいほ乳類が、ただで獲れると考える人には、魅力的に見えるでしょうが、間違えだと思うのです。もう時代は、獲ってくるから造り出すに大きく変わっています。獲ってくる縄張りの確保が国益と言われる時代から造り出せるでなければ、商業的には成り立っていきません。食べたことのない人にはあくまでも肉では無くて、鯨なのです。同じ事は、カンガルーでもワニでもあって、特別な食材となってしまうのです。だから、鯨食べられるのと言われても仕方の無い時代に、国際組織を脱退してまでやることなのかと思ってしまうのです。

 

研究費増大、無理しても効果は薄いの話

 ノーベル賞がこれからは取れなくなる、その理由は基礎研究を含めた研究費が少ないからだとテレビのコメンテーターが言うと誰もがうなずいています。確かにもっともな話に聞こえます。でも、よく考えて見たら、一体どんな研究にお金をつぎ込めば良いのかと言う疑問が出てきます。実際、これまでだって世界何位という程、一杯つぎ込んだ研究費の決定や仕分けは適正だったのかとなってきます。つまり、賞を獲れるような研究が優秀で日の目を見なかった研究費は無駄だったのかという事になれば、賞が取れるような研究はこれだと誰が決められるのかとなります。もっと言えば、役にたつ研究と無駄な研究を仕分けできるという人物などこの世にいるのですかと聞きたくなります。例えば、文学で源氏物語を研究していると言っても庶民の生活には全く影響がありません。例えば、ダンゴムシを研究していると言っても日の目を見ることになる様な成果を誰も予測できないと思うのです。例えば、郷土の偉人を研究していると言っても研究対象者さえ誰も知らないと言う事にだってなります。例えば、個人でも天文台的研究をして星に名前がついたという人もいますが研究費は自費という場合が多く見られます。つまり、研究なんて、ノーベル賞を目指したり、評価されることを目指して行っていると言う事よりも、その人が興味関心を持ち突き詰めたいと思う事が研究対象となっているのですから、それを応援する研究費が、競争で勝つものや利益を生むものに焦点を当てるというのは、違うと思うのです。中国の研究費が日本を抜こうと、どこの国より少なかろうとそんなことを煽る必要があるのだろうかと思われるのです。身の丈、分相応と言う言葉がある中でに、これから先も世界の中で背伸びして日本人を奮い立たせる必要があるのだろうかと思うのです。クローバルという言葉を言う人ほど、日本人という事に拘るし、世界の中の優劣に拘ります。確かに明治以降日本は、世界に飛び出してそれなりの地位や名声を得て、日本人という抽象的な象徴に結集し、頑張りで得られた経済大国としての生活ですが、世界と戦い続けていけばこの生活が永遠に守る事が出来ると考える事自体が、甘い予測だと思うのです。繁栄と衰退は人間の歴史そのものです。つい最近まで、化石燃料のガソリンは永遠に必要だと思っていたのに、エネルギーとしての役割を終えるかも知れないと言われています。だから、電気自動車の研究で最先端にいかなければ、国際特許を取らなければ席巻されてしまうと話す人は沢山います。では本当にそうなのかと考えると、過去には半導体で日本が世界一だったという事実がありますが、もう何年も前に統計の順位からも外れています。大きな流れの中で、ピンポイントの様に成功してもすぐに波は引いていきます。永続的に利益を生む世界的特許なんて今ではなくなりつつあります。それに科学・化学では、たった一つの方法では無く幾通りもの方法が存在して、一時的に優位になったとしても、すぐに代替出来る方法が研究されています。例えば、稀少金属類もそうです。一時は大変な騒ぎとなり産出する中国が大きな権益を握りましたが、数年で終わりとなり、そんな騒ぎがあったことさえ多くの人は忘れています。国際社会の中で日本が何番目なんて事はもう良いのです。国策研究の費用を増やしたところで、時代の流れは変わりません。最先端の技能を維持する為の研究費増大は、学問研究に片寄りを起こし、利益の為や産軍共同体へ変質しやすいのです。海洋開発、宇宙開発とどれだけ研究費をつぎ込んだってバブルのように消えていくことの方が多いのです。国として、競争心向きだしで国民を叱咤激励することをしたとしても、バブルのような時代は訪れません。よく貿易立国だからと説明することもありますが、それならもっと外交として相手に寄り添う事をしなければ相手国から嫌われるだけです。実際にこれまで援助した国が日本の味方ではありません。そこまで来ている加齢の島国が、今までのような方法で外国と競い合うスタイルでは息切れしてしまう時代が来ています。一ランク、二ランク下がったとしても広い見識がもてる研究を育成していくことの方が大事な時代へ入ろうとしていると思うのです。競い合いの最先端では無く、我が道を往くような研究で良いのでは無いかと思うのです。

 

陥落そして遅れてる方がいいんじゃないの話

 国連の分担金が、中国に抜かれて3位に陥落したと、実に残念そうに報道している人たちがいました。そんな見栄を張っているような地位から陥落したっていいじゃないかと思うのです。どうせ、分担金払ったって国連の官僚たちの高給に消えてしまい、実際の実務ではちっとも成果を上げていないと私は思っています。二位と言われていた時だって拒否権があるわけでもなく、金あるんだから出せよと言われているだけで案外メリットはなかったと言えます。今の国連の原点では、日本は敗戦国であり、アメリカのふんどし担ぎでしかないことは誰もが知っていることです。韓国の方が事務総長をしていた時に、第2位の拠出金国なのに、どれだけいじめられたかを考えると、中国が代わってくれたことを喜んでもいいと思うのです。中には、そんな単純な問題ではなくて、国力というものはと言い出す人もいるでしょうが、それこそ覇権主義的話で国力という全体論見栄を張る必要などないと思うのです。例えば、これまでの国力では、アメリカとの地位協定一つ変えられず日本の空は戻ってこないうちに中国の軍事力の方が日本をはるかに超えていきました。ロシアと戦争してでも取り返すぞと脅しを掛けられないままにペコペコしても島の返還は実現していません。同盟国だと言って韓国に竹島は占領されています。外交は、難しいと専門家に任せろと言ってなんでも秘密にして外務省が手柄を立てたことなどありません。つまり、国力相当のことも出来ない外交では、国連に金だけ出している方が無駄て、世界の困っている国に無償援助した方が効果が上がるような気がするのです。順位が下がって身の丈にあった国連との関係が出来る方が適切だと思うのです。

 もう一つ、日本は中国に遅れていると繰り返し報道されている電子決済。遅れていていいではないか勝気に中国と比較して悔しがることはないと思うのです。電子決済が日常生活に浸透して、現金で買い物が出来なくなる方がひどい社会だと思うのです。なぜなら電子決済は、誰がいつ、どこで何を買ったかがすべて記録されるのですが、自分で管理できないばかりかその情報が誰にどのように見られ利用されるかさえ不明なのです。自分が買い物した店が分かれば、行動範囲もおのずと推測できます。レシートを常に誰かに提供していることと同じです。ネットに自分で提供した情報は自分で責任を持てばいいことですが、電子決済は生活のお金の流れがそのまま他人に管理されてしまうかもしれないのです。まして中国の様な管理社会では管理者にもってこいのシステムだからこそ進んでいるのであって危ない国のシステムに遅れていたってなんの問題もないと思うのです。スポーツでも経済でも、上位になると大げさに報道されますが、勝気になる必要など全くないと思うのです。

 日本人は、江戸の昔から番付という事に熱心であることは事実です。話題の提供としても、誇らしさの意味でも、番付は根強い人気力があります。ですから島国論を言っている人までもが、県民ランクに反応しますし、自分が知らなかった程度のことでも地元が一番となるとなんとなく笑顔になってしまいます。バラエティーならそれでもいいのですが、報道で番付に一喜一憂したり感情を込めることは適切だとは思わないのです。これからの時代グローバル評価の中での番付に拘るよりも、わが道を行く姿勢で実務を大切にすべきだと思うのです。

学童保育にどんな質を求めているのかわからない話

 学童保育の歴史は、そんなに長くはありません。というのは、学童保育そのものがどんなものと規定されていませんし、形も時代で変わっています。本来必要なのかという疑問もありますから、学童保育そのものが曖昧すぎて実務・実施内容もまるで違うのです。ただ対象となる6歳から10歳ぐらいまでの子どもの生活は、社会の状況に大きく左右されますから、大人の見守りが必要な時代です。特に、小学校へ入学した低学年の、放課後の子供の過ごし方には社会の責任として配慮しなければならないというのは当然の事ですが、それが学童保育の質の確保と同等に論議されるのは違うと思うのです。子供は都会でも山の中でも家の中でも遊ぶことは出来ますが、その遊びの場が、著しい社会環境の変化から影響を受けて子供集団だけでは場の確保さえできなくなっているということは事実です。その要因の一つが安全の確保ということだと思うのです。単純な事故防止や犯罪防止だけではなく、苦情や補償問題などの大人の利得までが持ち込まれていることです。本来優先しなければならない子供の利益よりも、子供の安全性の中にまで大人の都合が深く関わり大人の対応が追いついていけず、子供を囲い込むことでないと子どもの安全性の確保ができないと思いこむほどに追い詰められているからだと思うのです。過去には、テレビに子守させているという批判がありましたが、やがて、テレビ番組ではなくファミコン等のテレビゲームに変わり、今ではスマホに子守をさせるという報告があるように、大人自身が制御できない機器が無制限に子供の遊びに持ち込まれ、規制が後を追いかけても間に合わないという環境が続いています。元々子供の遊びは、大人の真似だったりしますが、大人の持ち込む機器は、子供の自由度を狭め、結果として大人の管理下で過ごさなければ安全が保てないという環境になっているとも言えます。では過去は専業主婦が多かったのだから、親が見ていたのではと思われますが、それは正しくはありません。過去の専業主婦は、家事に専業しなければならないほど家庭内の仕事は多かったのです。脱水のない手洗いの洗濯は、洗いから乾燥までは一日仕事でしたし、アイロンがけをしなければならない繊維でもありました。冷蔵庫が普及する前の家庭の食品保存機能では、食事の準備は、毎日の買い出しから始まって調理、片付けと実際には子供の保育に専念できる環境ではなく、専業主婦は家事に長い時間拘束されており育児に専念できたのではありません。まして、農業や家業を営んでいる家では、子ども自体が労働力でもあったのです。それが家事の電化が始まったことで解放されるのですが、今度は、パートに行かざるを得ない経済環境になったのです。昭和30年代後半には、“ポストの数ほど保育所を”という言葉が生まれるほど母親の動員が始まっていましたし、「かぎっ子」という言葉も生まれるぐらい子供が放任されていた時代もあるのです。そして、親が見られなければ、兄弟姉妹であったり、祖父母でしたが、助け合うはずの兄弟姉妹も、祖父母もいない時代が急激に出現する中で、保育所を卒園した後の子どもの保育はどうするのかという中で、学童保育の必要性は増々増大しているというのも事実です。このような中で、起きた学童保育の質という問題なのですが、実際に決められた質の基準は、資格制度に近いもので有資格という事が一定の質を確保するものとなっています。そこに、疑問があるのです。つまり質を要求している中身を聞けば、遊びを確保すると言う事よりも、教育的配慮を求めているとしか思えないのです。つまりどうせ預けるのなら教育的配慮が出来た方がいいというものです。そこには、宿題を見てほしい、塾的配慮も必要だ、しつけや社会的要素・集団適応そして発達支援等々を求めています。だから、その辺の元気な年寄りが見ているということでは駄目なのです。もし、地域が健全ならば、子どもの安全が確保されるなら、日が暮れるまで遊べばいいことですから、何の資格もなくても子供が好きな人を任命してそれぞれの方法でも良いことなのです。しかし、求められる教育的配慮がない環境には、子供の親が納得しないのです。ただ、遊ばしているでは駄目なのです。それが学童保育に資格が必要ということの本音であると私は思っています。そして、教育的配慮を求めるのなら、学校の延長の方がはるかに効果的だとも思っています。放課後の一定時間に教育的配慮が必要なのは、小学校の高学年ぐらいまで遡らないと安全の確保ができない時代でもあるのです。留守番という言葉がなくなるように塾で過ごし、空き地と言われる地面は事故が起きないように囲いで閉鎖され、道路で遊ぶなどという事はとんでもないこととなりました。高校全入と言われるほどに教育の期間が長くなった中で、子供の社会体験は縮小し座学の期間が長くなるほど、幼少期の体験学習は貴重になってきています。有資格者で、宿題が見られることが求められることよりも、無資格でも、子供とうまく遊べる人を確保することの方が必要だと思うのです。

ママ友の群れは時に我儘になるの話

 スイミングスクールのプール観客席での話。スクールに通う子供たちの親が待っていたり、練習を見る事が出来るスペースが、どこにでもあります。そこでは、少しでも知り合いとなっているのだろうママ友が集まると、子供の話だけでなく、夫の話もべらべらと、家の事から昨日のご飯まで、大騒ぎで話しだしてしまいます。そんな個人的なことなど人に聞かれない様に言うべきことだと思う内容の山また山です。ひそひそ声で話していても、実は人の声はよく聞き取れるのです。何故なら、人の耳は、選択として言語と非言語の仕分けをして、どんな音も拾うということはせず、言語音声に対しては意識選択された音として、脳に伝わるように制御しています。その中で最優先されるのが日常使用している言語音声なのです。ですから、英語を喋れない人には、英語は聞こうとしないと言語として認識されません。聞きたくて聞くのではなくても、人の声に対して反応する正常な感覚器を持っていれば、その会話に関心がなければ、ただただ、うるさいだけです。何かに集中しようとしても、いわゆる耳触りとなって、不快になるものなのです。特に、高ぶったままにべらべらと普通に話し出せば、他人にはうるさいだけの事です。しかも声はだんだんと大きくなって、礼儀の範囲さえも超えてしまいます。仕方がないから注意すると、その場は収まったのですが、スクールの時間が終わって、廊下に出るとあわてたように追いかけてきて、「話しちゃいけないと書いてないでしょだから良いんです」と突然言い出すしまつ。何のことかと一瞬戸惑いながらも、そういう事じゃないと反論。こっちは、どんな指導をしているかを見たいし、自分がほかのプールへ連れて行ったときにどんなアドバイスをするかを含めて、トレーナーの指示も聞きたいんだと言うが、ママ友は、ここは前から和気あいあいの雰囲気でやっていて普段はもっとうるさいと言い出す。和気あいあいの意味が間違っていると言いたいがそれも我慢して、普段もっとうるさいということが適正だから今日の方がずっといいという比較は、毎日来ていない人にはわからないし、談話したいなら、他にあるだろうと伝えても、とにかく書いてないからいいのだというしまつ。よく空気を読むという言い方がありますが、見渡していつものメンバーでない人間が紛れ込んでいたなら、今日は雰囲気が悪いと感じればいい。元々雰囲気というのは、そこに集まったメンバーによって成り立つのだから、違う人間が一人いれば、雰囲気が変わって当然。その為、いつもの雰囲気と違って暗いと感じたとしても、いつもの明るい雰囲気を押し付けるべきでもないと思うのです。一人一人になったら、正当な苦情も言わないような人がこうして群れると一気に変わってしまう事が面白いとは思うけれど、群れたママともの自分たちの縄張りの中で作ったルールを、押し付けてくることの共感感覚に慣れないと群れによる攻撃の対象になってしまうということになってしまいました。だから普通の人は、何も言わずにじっとしている方が利口となってしまうのですが、「なにも書いてないでしょだからいいんです」を旗印に他人に押し付けるルールとはとても思えないのです。単純に考えて、子供が悪いいたずらをしたときに、ママとして子供に注意した途端に、「書いてないでしょだから良いんだよ」と言われたなら、なんと説得するのだろうと聞きたいぐらいでした。その場限りの正当性の主張が、群れによって増幅されると、あたかもそれが適正でなくてもルールとして確立していき、それを迷惑だと思う人にまで強制しようという事になってしまいます。「自分の会話が人には迷惑を知れ」と言う事など、電車やバスの中でも同じです。群れた途端に、大声になることの危険を知るべきです。群れた野良犬は今時いませんが、群れた羊だって、群れたウサギだって、相手に不安を与えるだけの力はあります。ママ友が待ち時間だと勘違いしている時間つぶしの会話の向こうでは、頑張る我が子が何度もこっちを見て、頑張っているところを見てほしいとアピールしています。それもいつものことと言えるかもしれませんが、いつも見守っているという事をママがアピールすべきだと思うのです。塾でもそうですが、預けっぱなしは良くありません。別室でも見守っているという視線が子供の成長には大切です。

ママ友が、子供の状態や、学習を援助するために集まっているのではなく、自分たちのストレス解消になっていたり、雑談の場でしかなかったなら、子供はママ友のつながりの道具に過ぎなくなって放置されているのと同じだと思うのです。見守りというのは、視線の先に常にあるから成り立つものだと思うのです。

 

こじつけ話は植物を誤解するの話

 人間的解釈では、植物は、毒とか棘とか自己防衛をしていると言われますが、草食動物の食事風景を見ればわかりますが、移動できないのですから、逃げることも出来ず、ほぼ食べられ放題の状態と言えます。例えばユーカリ。青酸毒を持っていますが、コアラは青酸毒を解毒して食べてしまいます。キリンは、有刺鉄線並みの棘のあるアカシアの木が主食です。トゲがあっても唇や口が傷つくこともなく、体に刺さることもありません。逆に飲み込んでしまったトゲが体内で刺さることも、消化されることもなく糞と一緒に大地に落とします。また、植物など多種多様にあるのですから何を食べてもいいようなものですが、動物は案外食べる植物を決めていて、棘があろうと毒があろうと、バリバリ食べます。つまり、仮に植物の防衛機能として毒や棘を持っていても、それを好んで食べる動物がいるなら何の防衛にもならないどころか、独占できるという逆効果にもなってしまいます。同様に、種子についても、食べられることで動物に種子を運ばせているのだという解釈があります。しかし、実を付ける植物を考えてみても、実を成熟させるのは大変なエネルギーが必要であえて実を付けなくても種子だけをモミジや松のように風に飛ばすことでも十分に子孫を残せます。どんぐりなんてあんなに実を付けてもただ食べられるだけで発芽して木になる効率はむちゃくちゃ悪いものです。動物を介して植物が繁栄するというのはごく一部の植物についての人間的解釈であって、植物の進化の中では適正な回答とは言えないと思うのです。種子をどのような方法で運ぶかの選択でも、本体に負担が多く掛かるものや複雑な方法や動物などに依存するなどの条件が多いほど、返って繁殖を妨げることになってしまいます。種子をまき散らすだけなら、もっと楽な方法を取っている植物は沢山ありますから、そちらの真似をした方がはるかに効果的です。ですから、なぜ、毒や棘が必要だったかということを、植物の自己防衛機能などと解釈しようとすると、ほんの一部しかなるほどという解釈は成り立たないのです。むしろ、植物は、捕食者対策としての防衛機能を持っているというのは、人間的なこじつけだと思うのです。移動できないから逃げられないから、自己防衛機能を持っていなければならないと思うのは人間的発想であって、植物の繁殖には適さない回答だと思うのです。それよりも、逆に、自己繁栄方法は、攻撃型の対策機能を駆使していると考えた方が、理解しやすくなると思うのです。最もわかりやすいのが最近のスギ花粉症あんなに巻き散らかさなくたって良いぐらい撒きます。これなどが、攻撃的対応だと思うのです。多くの植物は多数で有ったり、広がったり、高くなったり、根を張ったりして他の植物の成長を妨害することによって、自種目の繁栄を確保しています。つまり、植物にとっては、動物的な攻撃に対して身を守るという事より、他の植物の生育を邪魔するという攻撃を行う事の方が重要だということです。雑草と言われる一種は、同じ場所に大量の種を蒔きますが、一斉に発芽しません。同一条件でも日にちをずらして発芽するのです。だから雑草を幾らとっても次々と生えてくるのです。一方一面に発芽したとしても、全部が大きくなるような事はありません。仲間をどんどん淘汰させていくのです。一斉一面に発芽して、他の植物が育たない環境を作りますが、仲間をどんどん淘汰していくのです。それは生存競争に負けたのでも、弱肉強食でもなくて、よりいい位置を確保したものを残して自らを閉じていくのです。全員で均等に育つのではなく、他の植物の成長を妨害し、その地を独占できるように集団で場所取りをして、兄弟姉妹の中のでかくなれる奴だけを残して消えていくのです。植物同士の生存競争は、人間の目には見えないのですが、本当は人間が見えて確認できる動物の生存競争など問題にならないぐらい過酷なのです。何故なら、動物と違って、植物が対峙しているのは、自然環境、気候だからです。このことは、地球の歴史によって証明されますが、地球が繰り返してきた温暖化と寒冷化の中で、植物は、地球の規模で移動しています。平均気温が2度3度違っただけで森林の植物相が変わってしまうのです。寒い地域のホクキョククマも温かい地域のマレーグマも熊ですが、シベリアの森林と東南アジアのジャングルの森林は全く違います。太古から生きている動物はいませんが、植物ならいくらでもいます。気候に合わせて、植物は移動する手段として様々な方法を選択しているのです。

 人間は、自分が見える内容で、自分たちが納得できる講釈・解釈しますが、それは、初めて顕微鏡でミドリ虫を見た程度のことで、自然の仕組みをそこから解きほぐすことは出来ないのです。また、なんでも擬人化して考えることで人生の教訓の様な語りをしますがそれも案外針の穴の様な語りで、人間よりもずっと昔から生きている植物の命をつなぐ長い自然との関わりを解くことは出来ないのです。植物にとっては、動物や昆虫など戦いの相手ではなく、植物は、防衛よりも攻撃によって種の保存と繁栄を求めています。移動できない、それは人間が勝手に印象とした劣悪条件に思っていますが、移動しないという事を人間が真似たのが、狩猟民族から農耕民族になって土地を確保するという方法でもあります。人間自身でも、移動できないは悪条件の様でも移動能力で、人を量る時代は大きく変わりそうです。