知ったかぶりの話し

知ってるつもりの思い込みの感覚に、非常識な横やりを入れて覧る試みです

こじつけ話は植物を誤解するの話

 人間的解釈では、植物は、毒とか棘とか自己防衛をしていると言われますが、草食動物の食事風景を見ればわかりますが、移動できないのですから、逃げることも出来ず、ほぼ食べられ放題の状態と言えます。例えばユーカリ。青酸毒を持っていますが、コアラは青酸毒を解毒して食べてしまいます。キリンは、有刺鉄線並みの棘のあるアカシアの木が主食です。トゲがあっても唇や口が傷つくこともなく、体に刺さることもありません。逆に飲み込んでしまったトゲが体内で刺さることも、消化されることもなく糞と一緒に大地に落とします。また、植物など多種多様にあるのですから何を食べてもいいようなものですが、動物は案外食べる植物を決めていて、棘があろうと毒があろうと、バリバリ食べます。つまり、仮に植物の防衛機能として毒や棘を持っていても、それを好んで食べる動物がいるなら何の防衛にもならないどころか、独占できるという逆効果にもなってしまいます。同様に、種子についても、食べられることで動物に種子を運ばせているのだという解釈があります。しかし、実を付ける植物を考えてみても、実を成熟させるのは大変なエネルギーが必要であえて実を付けなくても種子だけをモミジや松のように風に飛ばすことでも十分に子孫を残せます。どんぐりなんてあんなに実を付けてもただ食べられるだけで発芽して木になる効率はむちゃくちゃ悪いものです。動物を介して植物が繁栄するというのはごく一部の植物についての人間的解釈であって、植物の進化の中では適正な回答とは言えないと思うのです。種子をどのような方法で運ぶかの選択でも、本体に負担が多く掛かるものや複雑な方法や動物などに依存するなどの条件が多いほど、返って繁殖を妨げることになってしまいます。種子をまき散らすだけなら、もっと楽な方法を取っている植物は沢山ありますから、そちらの真似をした方がはるかに効果的です。ですから、なぜ、毒や棘が必要だったかということを、植物の自己防衛機能などと解釈しようとすると、ほんの一部しかなるほどという解釈は成り立たないのです。むしろ、植物は、捕食者対策としての防衛機能を持っているというのは、人間的なこじつけだと思うのです。移動できないから逃げられないから、自己防衛機能を持っていなければならないと思うのは人間的発想であって、植物の繁殖には適さない回答だと思うのです。それよりも、逆に、自己繁栄方法は、攻撃型の対策機能を駆使していると考えた方が、理解しやすくなると思うのです。最もわかりやすいのが最近のスギ花粉症あんなに巻き散らかさなくたって良いぐらい撒きます。これなどが、攻撃的対応だと思うのです。多くの植物は多数で有ったり、広がったり、高くなったり、根を張ったりして他の植物の成長を妨害することによって、自種目の繁栄を確保しています。つまり、植物にとっては、動物的な攻撃に対して身を守るという事より、他の植物の生育を邪魔するという攻撃を行う事の方が重要だということです。雑草と言われる一種は、同じ場所に大量の種を蒔きますが、一斉に発芽しません。同一条件でも日にちをずらして発芽するのです。だから雑草を幾らとっても次々と生えてくるのです。一方一面に発芽したとしても、全部が大きくなるような事はありません。仲間をどんどん淘汰させていくのです。一斉一面に発芽して、他の植物が育たない環境を作りますが、仲間をどんどん淘汰していくのです。それは生存競争に負けたのでも、弱肉強食でもなくて、よりいい位置を確保したものを残して自らを閉じていくのです。全員で均等に育つのではなく、他の植物の成長を妨害し、その地を独占できるように集団で場所取りをして、兄弟姉妹の中のでかくなれる奴だけを残して消えていくのです。植物同士の生存競争は、人間の目には見えないのですが、本当は人間が見えて確認できる動物の生存競争など問題にならないぐらい過酷なのです。何故なら、動物と違って、植物が対峙しているのは、自然環境、気候だからです。このことは、地球の歴史によって証明されますが、地球が繰り返してきた温暖化と寒冷化の中で、植物は、地球の規模で移動しています。平均気温が2度3度違っただけで森林の植物相が変わってしまうのです。寒い地域のホクキョククマも温かい地域のマレーグマも熊ですが、シベリアの森林と東南アジアのジャングルの森林は全く違います。太古から生きている動物はいませんが、植物ならいくらでもいます。気候に合わせて、植物は移動する手段として様々な方法を選択しているのです。

 人間は、自分が見える内容で、自分たちが納得できる講釈・解釈しますが、それは、初めて顕微鏡でミドリ虫を見た程度のことで、自然の仕組みをそこから解きほぐすことは出来ないのです。また、なんでも擬人化して考えることで人生の教訓の様な語りをしますがそれも案外針の穴の様な語りで、人間よりもずっと昔から生きている植物の命をつなぐ長い自然との関わりを解くことは出来ないのです。植物にとっては、動物や昆虫など戦いの相手ではなく、植物は、防衛よりも攻撃によって種の保存と繁栄を求めています。移動できない、それは人間が勝手に印象とした劣悪条件に思っていますが、移動しないという事を人間が真似たのが、狩猟民族から農耕民族になって土地を確保するという方法でもあります。人間自身でも、移動できないは悪条件の様でも移動能力で、人を量る時代は大きく変わりそうです。

 

介護脱毛は、道を間違えるの話

 老後に介護されることに備え、デリケートゾーンの脱毛を行う「介護脱毛」を始める40代から60代の女性が増えていると報道されました。報道によれば、親を介護した経験などから自身の将来を見据えクリニックやエステサロンで脱毛する客が増えているということです。理由は、デリケートゾーンは毛や皮膚の間に排泄物が残りやすくアンダーヘアで蒸れが生じて細菌の繁殖による臭いやかぶれも起きる恐れがあり、炎症や細菌感染症、尿路感染症を引き起こす可能性もあるからと解説しています。さらに、脱毛でこれらのリスクを軽減できるだけでなくおむつ交換や排泄介助の際の臭いが軽減されたり、清拭が楽になったりと介護の手間も違うといいます。調べてみると、介護脱毛は、介護を受ける方の、気配りとされながら、最近では介護される方のエチケットなどという発言まであるのです。人によっては、脱毛した方が、便利なのでしょうが、「自分がキレイになりたい」とか「自分の趣味・趣向」ならそれもいいのですが、将来介護されることを考えて介護者のために脱毛することが、あたかも正しくて、自主的に行うことがマナーのように言われ出していることには納得できません。こんな正解でも無い、情報を流し続けることで、介護脱毛を自己決定させるような巧みな誘導が、過去には、障がい者の避妊手術に繋がったと言う事もあります。それだけで無く、マナーが出来ない、エチケットがわからないと自由に外出も出来ない様に社会的圧力で、障がい者を追い詰めた時代がすぐ前にあったことを忘れるわけにはいきません。誰もが、毛を剃るだけだから良いのではと思うかもしれませんが、自主的な行為であるとされているその本当の目的が、自身の好みのためでは無く介護の軽減だと言う事に間違いがあると思うのです。つまり、介護の軽減の為ならある程度は本人も歩み寄るべきだと言う事が、エスカレートしていくと、うんこやおしっこをすること自体が介護の手間で迷惑という事になってしまいます。現実に介護の現場では、夜間の介護を避けようと飲んだり食べたりを制限する高齢者もいます。歯磨き一つをとっても、総入れ歯にした方が手間が掛からないとなってしまうかも知れません。自然のままの介護を受けることが、人様に迷惑を掛ける贅沢な望みとなってしまう時代を呼び寄せるような行為が介護脱毛としか思えないのです。高齢化が進んでいる日本では、2025年には65歳以上の割合が約30%にに達して、国民の約2.5人に1人が65歳以上の高齢者となる社会が到来すると推計されています。その時、自分が第三者から介護を受けることを意識し、ワキや局部などを脱毛するという介護脱毛が、常識になってはならないと思うのです。しかも、現在、クリニックやエステで使用されている脱毛機はすべて毛のメラニン(黒の色素細胞)に反応して脱毛するしくみなので、レーザー脱毛は白髪になってしまうと黒の色素細胞がないためできないのです。ですから、40代ぐらいの女性に急がないと間に合わないような不安を煽った言い方も一部ではしているようです。でも、脇も肛門周囲の毛も、女性は歳を召されると不思議となくなるとも言われています。つまり、本当に介護が必要な頃には自然に薄くなったり無くなったりして介護に手間が掛からないかも知れないのです。脱毛サロンやクリニックの新たな顧客開拓という側面もあるかも知れませんが、介護に迷惑だからと、自然に反する行為までがマナーやエチケットになってしまうのは、道を間違えてしまった過去と同じ道へ迷い込むことだと思うのです。介護の世界にもロボットとか確かに人手の掛からない方法が導入されてくるでしょうが、福祉や介護は、社会の迷惑だけど仕方が無いからやってやると言うものでは無く、人として最後までただただ普通に生きていたいという願いの実現だと思うのです。

 

なんでも甘いという甘い評価

 テレビのレポーターが、野菜でも果物でも何でもかんでも「甘い」と評価して、糖度がメロンと同じだなんてことを得意げに言います。野菜の評価も、わざわざそのまま食べて甘いと評価します。今や糖度が高いほど良い野菜の様な評価と褒め方をしています。塩分控えめの食生活の中で、甘ければおいしいなんてことが平然と言われて、農業は甘い野菜作りに一生懸命です。野菜ばかりではありません。A何とかランクの肉は甘くてとろけるなどとも言いますし、マグロが口の中でとろけて甘いなどと言うレポーターまでいます。一方で、今動物園では、日本の果物を動物に与えられないと言われています。それは、今の日本の果物は、本来の自然界にはない甘さで、動物の体に悪い影響が出るからだそうです。そんなことを言うなら、動物の体に悪い、甘い野菜と甘い果物を食べている人間の子供たちは本当に大丈夫なのとも言えます。ダイエットの時に果物の果糖は、大敵だということを知っている人も多いと思うのですが、実は、甘い物は、脳には必要なのですが、白砂糖は体に有毒だということは、すでに証明されていることです。白砂糖は、血液を酸化し、赤血球や細胞を崩壊させます。砂糖の害として、我慢ができない、イライラする、きれやすい、不眠やうつ病などが挙げられています。それは、白砂糖などは、精製する過程で、本来持っているミネラルなどを取り除いてないだけでなく、体の中のビタミンやミネラルを消費して不足にさせてしまうからです。同様に、レポーターが何かと言う、ジューシーなどと表現される果物の、過剰なビタミンC摂取も、カルシウムの吸収を妨げ、疾病の原因ともなります。農薬や化学肥料などに、敏感な人も多いのに、甘ければいい、ジューシーがいいという、果物や野菜の評価を非難する人は案外少ないのです。本来の、自然界ではないほどに甘くするには品種の改良だけではなく、化学肥料や特殊な農薬を使わなければ、品質は保てませんし、人工的に作り出した特殊な品種だということを認識しなければなりません。ある意味では、植物としての奇形でしかないのです。動物の中でも最良の味覚を持っている人間なのに、一つの味覚だけがおいしいことだとしてしまうのは間違いだと思うのです。渋いや苦い、酸っぱいは長く人間を支えてきた重要な感覚器です。人間ほど発達した味覚が与えられた生物がいないのに、今やなぜか甘い方がいいということになりかけているのです。和食は、体にいいとか言っていますが、和食では調味料としての白砂糖は今ほど安易に使用できたのではありません。自然に取れた、野菜や果物の甘さを調味料として利用し、砂糖を入れて強化したのではなく、総体的なバランスで甘みを感じさせていたのです。ですから、なんでも糖度が高いことがいい野菜や果物にはなっていませんでした。イチゴ並みの甘いトマトなどとも表現されますが、こんなに甘いイチゴは近年のことで、イチゴもちゃんと酸っぱかったのです。だからイチゴは、ジャムとして最適だったのです。酸味がないと良いジャムにはなりません。もっと言えば、そんなに甘くておいしいなら、栽培中だって、沢山の昆虫の標的になって実も葉もボロボロになってしまいます。でも商品として並んでいるのを見ると素敵な形できれいなのは、それなりの処理がされているからです。現代の農薬は非常に良く出来ていて飲んだらすぐに中毒で死ぬなどという過去の物とは全く違います。ですから、残留農薬の基準値を大幅に下回っていますし、人体に影響が出るような事はありませんと偉い先生も言っています。しかし、それは落とし穴で、何年も蓄積したら人体に影響がないとは誰も言えないのです。つまり、今から10年後に今の時代の微量な農薬の蓄積による疾病が出て初めて診断されるのです。つまり、今の我々が現代の農薬が微量でも蓄積するとどうなるかの実験台となっているということです。農薬の開発者だって、短期間の動物実験は出来ますが、長期間の人間での実験など出来ませんから、その時が来るまで待つしかないのです。そしてそれは、今までと同じように、大丈夫と言い続けて、突然にあれは毒だったと発表されるものなのです。急にプラスチックのストローが廃止される原因は、マイクロチップとなったプラスチックですが、そんなことはわかっていても、営利のために誰もが口を閉じて、コマーシャルスポンサーがいるからマスコミも絶対に取り上げないのです。今、果物も野菜もブランド化と広告によって販売拡大を目論んでいます。だから、受けのいい甘いとジューシーを多用しているのです。本物の野菜なら、種を取って次の年に種を蒔けば、同じものが収穫できます。しかし、品種改良されたものは、種を取っても同じ作物は出来ません。それほど人間の手が入りすぎている野菜や果物が氾濫しているのです。果物の果糖も白砂糖に負けないぐらい有毒だということを示すことなく、甘いからおいしいとレポートすることは本当に罪なことなのです。

ほんやく機が普及する時代がそこまで来ている英語の話

 長年やってもしゃべれないと言われる英語、ならばと今度は小学校でも教えようという事になりそうです。何年やっても何百万人がやってもろくにしゃべることが出来ない英語教育は間違っていると云う批判も沢山ありますが、未だに論議ばかりで良い方法は見いだされず実施はされていず、英語の教材や塾の宣伝はやたらとやっています。そもそも、言語はその言葉を使う人の文化・思想・思考を共有するためのコミュニケーション手段の一つにすぎませんから、言語を理解することは相手の理解に結びついていなければなりません。さらに、語学は基本生活に密着していなければ忘れるもので、少数民族の言葉の事例だけでなく、日本の方言も使用されないうちに消えて話せなくなりつつあります。日本語の尊敬語・謙譲語といった使い方だって出来なくなってきているのは生活の中で使用しないからです。一方世界に活躍するには英語が必要だというのは正しいことかもしれませんが、それは世界の中の覇権という意味でしかありません。イギリスが世界の覇権を握り支配者の言葉として公用語として使用され、その植民地の一つだったアメリカが第二次世界大戦に続く冷戦後の世界の覇権を握ったことからアメリカ英語が公用語のように使用されているだけで、今後中国が覇権を握れば中国語が公用語となるかもしれないのです。にもかかわらず大学受験の英語をどうするかと揉めている日本はグローバル社会に出ていくほど自分を失うタイプになってしまっているとしか思えません。民族としての重要な要素は言葉で、自国の言葉を大事にすることが英語流に言うアイデンティティーを守ることでもあります。そして、日本人がなぜそれほど英語を必要としているかというとビジネスに使用するからだけです。楽天とか大きな企業は社内の言語を英語とするなどしていますが、母国語を大事に出来ない企業がいったい何のためにビジネスの世界展開を図るのかわかりません。相手を理解するために必要な相手の言葉を学ぶことと、利益のためなら自国語はいらないというのは違うと思うのです。テレビが全国に行き亘り、標準語が行き亘り、方言が嘲笑される時代を経て今生活に根差した言葉を大事にしようということがあります。

 そんな中で、翻訳機がとても高機能になって登場してきています。同時通訳なんてことも夢ではありません。これまでも、音声でワープロを打ち込むソフトなどがありましたが、その人の発音やアクセント等々をアナウンサーのように標準語に近づける努力をするか、その人だけの発音でも聞き取ってくれるようになん頁ものテキストを読んでパソコンに慣れてもらう努力をしなければならない代物ばかりでした。しかも、音声ワープロは、誤字脱字も多くて、あまり役に立つとは言えないものでした。ですから、会議のテープ起こしに利用したくてもとても無理でした。また、翻訳機も様々ありましたがまるで筆談という感じで、旅行や道案内程度の簡単な会話なら役立つ程度でした。それが、いよいよAIが語学の領域に十分な対応できるようになってきたのです。過去には、そろばんと電卓という組み合わせがあって、電卓は益々進化し、そろばんは静かに粛々と今も活躍しています。また、商店のレジも、打ち込みがなくなり、バーコードとなり、やがてカード精算とることで、万引きさえも不可能な時代がやってきそうです。相手を理解したいとか、親密になりたいと思うなら、言語の役割は非常に高いし、相当の言語力が求められますが、日常会話程度なら、携帯電話機に搭載される翻訳機で十分という日がそこに来ています。つまり、自国語を大事にしていても、外国人と意思疎通ができる時代が来ているのです。ですから、相手を知るための英語ではなく、利益のための日本の英語教育は、そろそろ終わりにしてもいいと思うのです。

弱さに付け込む信念の話

 民間療法には、様々あって療法やセラピーなんて言い出すと数え切れないほどあります。その多くが、美容、疲労の回復や老化防止、精神安定等々ですが、殆どは、自己体験によって得た確信を他人にも、分けてあげたいと思い込む本人の善意の塊で成り立っていることが多く見られます。しかも、どんな方法でも、体に働きかけると、身体は反応しますから、効いた気にさせることはそれほど難しい事ではないということです。そして実体験として効いた気にすれば、後は押し続けることでそれなりの商売にはなります。人は健康でも、不安と心配をあおり続ければ、どんなに強い猜疑心の持ち主でも自己防衛力が高い人でも、一穴の穴を開けることは、困難ではありません。さらに、古くからの言葉として、老化を防ぐ、若さが保てる、心が安らぐなんて言われると微妙に心が動いてしまいます。そんな不安をあおりながら、必需品でもないのに、過去から延々と商売として続いてきた民間療法も数々あります。健康関連の商売は、よくCМで使われる使用前と使用後の比較で効果があったように見せますが、同じ条件で同時進行でなければ効果を証明したとは言えません。しかし、人間は一人しかいませんから、同時進行で比較する実験は出来ません。また、CМでは、小さく必ず、効果には個人差がありますと防衛線を張っているように、個体による差は、信心の差に等しいぐらい大きい物です。例えば、皮膚。女性は過去から化粧として顔に様々な物質を塗っていますが、老化は確実に訪れてどんな美貌の方でもちゃんと年相応の皮膚になります。それは、単純に皮膚から物質は簡単に吸収されることはないからです。人体を覆っている皮膚は、外部からの攻撃を防ぐ、防衛機能の最前線です。危険な物質、危険な空気に接しても人体に潜入させないために必死に頑張っています。ウイルスや寄生虫も簡単には潜入できないのです。だから、化粧に老化防止剤が入っていようと、皮膚から吸収されているわけではありません。皮膚の薬であっても、強い刺激を与えることで皮膚の活性化を促している場合や浸透圧を利用しますが、浸透するのは微量です。皮膚に働きかけるとは、体温が高い時に、皮膚に冷たいものを当てて熱交換をすることで体温を下げるなどの、刺激と反応という面では効果はあります。それを、偶然でも、過去からのものでも、何らかの方法で使用した結果、その効果を自身で感じたことのある人は、信じ切って他人にお勧めする時も、言葉に自信が満ち溢れてしまうのです。ノーベル賞を頂いた大先生が開発した免疫療法も、数年前までは、疑心暗鬼で医学界では否定的でしたし、今でも怪しげな免疫療法は様々にあります。人間は、虫よけ予防や疾病予防のために体に泥を塗るところから、体毛の無い皮膚に働きかけてきました。それは、体毛がある方が生存には有利な中で、たまたま生まれた体毛のない人類の祖先が森林を追い出され生き残るために皮膚を利用した発汗機能を獲得できたからです。発汗による体温調節は、体毛による保温等の機能より、ずっと高機能なことなのです。動物は、体を動かすと体温が上昇し、体温が高温になり続けると、死に至ります。ところが体毛がない発汗という温度調節機能があると、体温調整がより長時間に亘って可能となったのです。この機能によって、牙もない、まだ武器も作れない人間が、動物を追いかけて相手の体温が上がって動けなくなるまで走り続けることで獲物を獲得できたのです。皮膚を使った温度調節機能を持っていたから、アフリカを出て世界へと散らばって行けたのです。マラソンは発汗作用のある皮膚があるから出来るのであって体毛があったら出来ません。ですから、汗腺を逆流して異物が入らないような仕組みもちゃんと出来ているのです。民間療法の範囲は著しく広くて、エステとか、健康サプリメント、リラクレーション、ヨガ、ストレッチからダンス的なものまで、ありとあらゆる商品やサービスが現代は溢れかえっていますが、人間の体の創りに合わせて利用しないと本当は大変なことになるのです。それに、外部からの作用は、継続的に繰り返されている間しか効果はなく、元へ戻る時には、経過した時間をちゃんと足して戻るものだからです。

 何かしら、弱り目がある人は、誰にでも効くとは限らない療法であっても関心を寄せます。その関心を手繰り寄せるように、信じ込ませる原動力が信念だということも多くあります。そんな信念は、ほかにも方法があったかもしれないとか、副作用や後遺症があるかもしれないとは言わず、これこそが唯一の方法と言いきることで迷いを吹き飛ばしそうとするから危険なのです。そしてその危険とは、これらの療法などでは、「なぜ効かないか」と言いうことを販売者そのものがわかっていないからです。どんなことでも効いたという一方通行は危険なのです。なぜなら、効かないということの中にこそ、効く理由があるからです。薬でも何故効くのかわからないものが沢山あります。その答えを探すのは、効かないという人の中にあるのです。効かない人は切り捨ててしまうような健康療法は、弱り目に附けこむだけの、ただの金儲けだとだからいえるのです。

お家芸ってなーにの話

 スポーツの報道で、ちょっと多めの勝利があるとすぐに、「お家芸」と言ってまるで身内が勝ったように言うだけでなく、上位を維持出来ずに、ちょっと続いて負けると再び「お家芸」がと非難します。元々、お家芸というのは、家元や宗家なんて言う流派に使う言葉で、国家規模で使用すべき言葉ではありません。また、お家大事の時代の言葉で、その時代には、国家と一家を同一視した使用などされてはいません。お家芸というのは、日本の家父長制度としての、「家」を指す言葉です。例えば、廃藩置県なんて言葉があるので江戸時代は、藩と呼んでいたことになっていますが、本当は大名の名前で呼んでいました。日本藩家老東京なんてことはなくて、日本家家中家老東京なんて感じです。つまり、家中心に集まっている集団の得意技がお家芸ですから、日本全国が一家族ということは、中央集権が徹底していなければならず、戦時中の発想です。伝統芸能の場合は、一族郎党が家族として動いているわけですし、戦前までは、他人の集まりであるヤクザの世界でも、一家と言って疑似家族的構成で組織を運営していましたが、その前提は、家長を中心とした家制度の事を指しています。それが日本の封建制度の底辺でもあったのですが、家父長的一家観を戦後捨てて新しい価値観を持とうとしてきた、旧制度を批判してきたはずの、報道で慣用句の如く使用しているというのは感覚の逆行としか思われません。それに、よく考えてみれば、スポーツの世界で、持続的に常勝できるなんてことはあり得ませんから、勝っているのは、たまたまその競技のその時に、人材がそろっていた程度の認識が適正だと思うのです。お家芸などとあたかも勝つことが当然で、負けると国を辱めるなんて感じで当事者に無駄な神経を使わせるような報道は慎むべきだと思うのです。それに、スポーツのルールは国などと言う線引きでは無く、競技者間には共通に認識されているもので、選手の出場に関わる選定や制限を現在では、国を単位にしていると言う事にすぎません。資金や会場、開催を含めて今は、国単位が有利だから優先しているだけで、世界的な規模の企業の応援が有利だとなれば、会社単位になるかも知れません。また、どこかの国に偏って勝利が続くことがあれば、何か事情があるのかと思われるでしょうし、グローバルな競技ではないという事になってしまいます。日本のように、その競技の発祥国だという変なプライドで、その競技に常勝することが発祥国の当然の事と思い込んで強く望むことは明らかな間違いだと思うのです。発祥国の誇りやその競技が国際的に好まれて競技人口が増大する事を喜ぶことと、発祥だから、お家芸だから勝つべきだと思う事は別だと思うのです。勝利者が誰もいないと、随分落ちぶれたな、などと皮肉っぽく言うべき事だとも思わないのです。柔道で考えても、日本発祥だから、日本人しか勝てないということならば、世界としてはローカル競技で良いのではないかという事になってしまうと思うのです。現に、世界にはローカルな競技はいくらでもあるのですから。

 お家芸などと、競技者を無理やり日本人にしてしまうのは、適切だとは思わないのです。その様な意識が、テニスの大阪なおみさんを手放しでは喜べないと表現した人に繋がると思うのです。そして何かあると「ハーフ」と言う言い方も、そこへと繋がっていると思うのです。日本の文化としての伝統芸能は、固有のお家芸ですが、日本国というお家芸など無いと思うのです。そして、そのお家芸を日本人が伝承できず、外国の方が繋いでいる現実を知るべきだと思うのです。グローバルとは、国籍を超えていくと言う事ですから、スポーツのような世界でお家芸という表現は、もう辞めた方が良いと思うのです。

 

たばこ値上げに賛成の話

 10月からたばこ税が引き上げられて、400円から500円台へと移りつつあります。もっと上げて1000円台でもいいと思っています。純粋に禁煙が健康に良いとか、受動喫煙が問題だとかではなく、「専売品」として適切だとは思わないからです。今では「専売公社」と言っても世代の言葉となりましたが、酒・たばこ・塩などは専売品として、国家が管理する商品の一つであったのです。専売制度そのものは、日露戦争を初めとする戦費の確保のための資金作りに使われた特別税徴収とも言えるものです。消費税を導入していなかった当時の政府にとって、物品税として生産の管理まで行ったのが専売制度です。ですから、たばこの自家製も、酒の自分での製造も、塩の製造も、免許制で、勝手に作ると処罰されたのです。酒を例に取ると、酒の自家製造は実際最高裁まで争われました。政府は、裁判の情勢を見ながら、酒税法を改正して、酒造免許の要件を緩めたり、小規模化し地ビールブームを起こしたり、特定の条件で、「どぶろく」を造ることが出来る様にしてきましたが、明治に禁止された自家醸造は、いまもって廃止されてはいません。しかし、罰まで付いている自家醸造に関して、国税当局が取り締まりに努力しているという事もありません。味噌や醤油を自分でつくっても罰せられることはないのに、なぜ酒やたばこ、塩は、ダメなのかという疑問は誰でもが思う事です。特に消費税を導入している現在、酒・たばこだけに罰を含めた対応が必要なのか疑問です。平成元年の最高裁判決では、自家醸造を禁止する根拠は税収の為と言われましたから、尚更税のためなら消費税との関連で対応すれば良いだけです。さらに言えば、自家醸造の目的は、趣味を除けば、市販品より安く出来る、自分で原料を吟味できるなどの理由と思われますが、現在販売されている品質の酒を自分で造ることはかなり困難です。頑張って、企業並みの品質を個人で作るよりも、購入した方が質・量共にできの良い物が出回っています。それは、紙巻きタバコでも同様です。最近になって、ひっそりとですが塩は、専売から解禁されました。税のためだと言うのなら、酒・タバコは趣向品で、塩は生活必需品ですから、確実に必要な塩は最後まで解禁されそうに無いと思われますが、真っ先に解禁してしまったのです。それは、専売の塩による公害・疾病騒動が起こりかねない情勢があったからです。専売公社が独占して販売していた塩は、「イオン交換膜法」という生成法で作られた化学物質塩化ナトリウムでした。塩は、海水の水分を蒸発させるか、地殻変動で過去の海が干上って出来たものを掘り出すかしますが、これらの海水には不純物としてミネラルや人体に必要な物質が含まれています。しかし、専売公社が作る塩は、純度99・9%の塩化ナトリウムですから、余分なものは全く含まれていなかったのです。さらに酷いのは、海外から安く仕入れた、天日塩を水で溶かして、薬品処理までして自然海水塩に含まれる各種ミネラルなどを取りだし、工業、医薬品、農薬、肥料会社などに販売して、残りの純度99.5%までに高めた塩化ナトリウムを販売していました。そんなことを何十年もやっていると、本来身体に必要なミネラルなどが摂取されなくて、各種の成人病なんて呼ばれた疾病の原因では無いかと学術的にも疑われ始めたのです。つまり「塩分」取りすぎでは無くて、化学物質の偽塩の取りすぎだったのではないかという疑いです。家でどんなに気を付けても、外食産業・ファーストフード・加工食品・パン等々何にでも入っている塩が、ただの化学物質だったのです。お出汁に拘るという日本人は、塩にはとても鈍感だったのです。そして、各種ガンや高血圧・脳梗塞心筋梗塞アトピー・花粉症等々を研究する医師からも、原因にされかねない偽塩をさっさと解禁したというのが本音だと言われています。本当に税収のことだけなら、生活必需品では無い砂糖を専売にした方がいいと思うのですが、塩はソーダやガラスなどの工業原料としてだけで無く、農業、水産などにも需要があり砂糖とは比べものにならない消費があります。

 中毒症状があり、健康に害があるというわれる酒・タバコは、専売を続ける根拠は既に無くなっていると思うのです。自由に誰でもが作れると大量に出回って価格が安くなり飲酒・喫煙人口が増えるなどと考える人もいるでしょうが、専売公社が禁煙に努力したと言う事実はありませんし、今だって税金を集めているのだと居直る喫煙議員の反対によってタバコの値段は中々上げられないのです。ですから、公権力が特定物品の生産から販売を独占する理由は、税収の確保で専売制度というものが有る限り、いつ何を対象商品とするかは国の都合で決められると言うことでしかありません。ましてや趣向品でしかない商品を、政府等が独占的に生産・販売する理由などこじつけ以外には見つかりません。税金が足りなくなったら、市場の中で一番税金が取れそうなものを国が勝手に決めて生産までコントロールする専売制度は、危険な特別税制度だと思うのです。