知ったかぶりの話し

知ってるつもりの思い込みの感覚に、非常識な横やりを入れて覧る試みです

精霊はいますの話

 監視カメラをはじめとして、画像による証明が今は一番有効になってきました。そして映像という視覚で確認できることが正しいと、映像を疑うことなく無意識に判断している現実があります。しかし、その一方で人間の視覚は、騙されやすく真実を必ずしも見つめないということも誰もが知っています。たとえば、そこに二つの丸があれば、脳はそれを目と錯覚して顔の輪郭を探そうとします。そこに顔がなくても脳にある記憶の過去の映像を参照して顔を作り出そうとします。天井や壁のシミを見て何かの人物に見えるというたぐいのことは、人間の脳のなせる技で、動物にはできません。また、写す時に被写体の位置や遠近などの技法を使えば、カメラは科学でも、作り出された映像は、実態とは違う、様々なだまし絵を作ることも可能です。つまり、自然を何の操作もなしに写した映像は一部の真実を捕らえているかもしれませんが映像は意図さえあれば、人間の脳に訴えることで真実とは違うものも映し出すこともできます。人間が作った映像は脳がどのように反応しどのように解釈するかを綿密に計算して、真実とは程遠い判断を導くこともできます。つまり外からの刺激を脳を通じて解釈するときに、自然の真実をそのままに情報として伝達するのではなく、自身の経験という脳の経験を基礎として判断します。ですから、脳にどんな情報としての経験値を蓄積しているかで自然からの刺激を受け取ることができるか、出来ないかが決まってきます。自然からの情報は、動物の持つ五感と六感で受信します。ところが現代人は、受信機能に自然情報のデーター組み込みをほとんど怠るようになりました。その結果、自然刺激の頂点たる「精霊」からの刺激を受け取ることは出来なくなったのです。

 聴覚は、視覚以上の距離や暗闇でもその音を生活の中で安全のために利用しますが、聞いたことがあるという経験なしには活用できません。言葉もその音が何を指すかを共有しているから確認できますが、聞こえても脳に経験の記憶がなければ何の音か、言葉なのか、生活音なのかさえ確認できません。風の音だとしても、ビルを走る風と林を走る風、水の上を走る風の違いを想像できるのは、経験によります。水の流れる音にしても同じです。小川のせせらぎという様な、水の音で川の流れを想像することは経験不足、情報がありませんの時代になりました。同様に、臭覚も低下しています。極端ですが、水のにおい、血のにおいなんて、もうとっくにわからなくなっています。なぜなら、今は、脱臭、臭いを消すことに必死になっているからです。動物のマーキングは匂いです。臭いを親子の識別に使用している動物も多く、過去には臭いで差別があるぐらい人間同士でも臭いがあって、友達の家に行けば、その家の臭いというものがあったものです。それが職業だったり、仲間意識だったりしたものですが、身近な臭いがなくなって、臭いで安全か危険か判断する基礎データーとなる臭いも消されていますから、感覚器としての臭覚は機能低下しているのです。さらに、味覚としての感覚器を麻痺させているのが、旨みを追求した料理です。現在の料理は、テレビの効果もあって、素材の味では無く何かが加えられていなければ料理とは言わなくなり、人の手で作られた旨味がない料理など無くなりました。結果として、誰もがおいしいという普遍的な味の追求と添加物に麻痺されて、素材そのものを食べて判断するという経験は失われていきました。日常食べている素材でも、添加物化が加えていなければおいしくないと判断するような感覚に育てられています。そして、触覚は、人工物ばかりで、自然に触れる経験も無くなりました。芋虫を触るとどんな触感か、ミミズを持つとどんな触感かの記憶は脳にはないのです。木の肌に触れれば、何の木か推測することすらできなくなりました。こうして、五感がマヒさせられた現代人には、六感などと言う感覚も、架空の感覚となってしまい、今ではその言葉すら聞くことも使用することもなくなりつつあります。五感を研ぎ澄ますことは、自然からの刺激を受け止める受信機をメンテナンスすることです。そのことによって受信機としての機能と経験値が高まり、五感では感じられなかった「精霊からの刺激」を受信できる機能となってくるのです。人工物だけに依存する生活にならされてしまうと、「精霊からの刺激」を受信できなくなり、自分らしさがなくなってしまうのです。

いじめ内部通報は善意者の勇気の話

「チクリやがったな」と言うのは加害者の舌打ちです。内部通報は善意者の勇気です。集団になれば「いじめ」は必ずついて回りますが、いじめた方はいつだって「軽い気持ち」「ちょっとした遊びだった」「ふざけていただけ」なんて本当に被害者の気持ちなんて分かるはずも無いぐらい立ち位置が違います。でも、自ら手は出さないけれどその場の環境として存在していた人は、誰だって気がついています。人間は、自己防衛機能として自分がいまどんな環境に置かれているかを即座に判断して自分の行動を決定しています。ですから突然大声が聞こえたなら声の方に視線を向けそれが喧嘩なら状況を見て直接かかわる仲裁に入るか傍観するか通り過ぎるかを決めます。まして一つの集団の中にいれば、小さな声であっても聞こえますし、周囲の状況や情報も適正に観察し判断しています。ですから、いじめがあった集団では、余程鈍感で無ければ「まずいなー」程度でも気がついているはずです。ところが日本の誤った集団維持機能として情報を外部へ漏らすのは、卑怯な手段であるという「掟」が「道徳」のごとく連綿と続いて「まずいなー」を是正する機能がないのです。むしろ外へ情報を漏らすことは組織・集団・仲間への、裏切り、漏洩、告げ口と悪い事となって、恥とまで思われてしまいます。ですから、最近でも組織内では反対派なのに、組織防衛として内部の悪事まで隠し続けることが大きな企業でもありました。つまり、一つの集団が形成されると集団の維持が目的に変質して強いものが不正をしてもそれを是正できる機能は日本の集団にはないのです。自治会とかのような組織でも監査が必ず置かれているのに実は執行部と一緒だったりして内部統制機能不全は、日常に溢れています。そして、学校では、三権分立などということは建前で語っても、内部統制という機能が大事なことは教えることがないのです。学校では、いじめがあれば気づいているクラスメイトが何人してもそれを是正する機能も手段もないのです。いじめをなくそうと学校の教員にどんなに発破をかけても、組織防衛が優先する学校には、内部統制機能も是正する機能も実はないのです。

 いじめの世界では、いじめの対象となった人は、実は我慢強くて他者への攻撃力がとても低い人なのです。福島からの避難者は「ばい菌」扱いされても何年も我慢しています。そして、周りには気づいた人が何人もいたはずなのです。ところが、本人は、「いじられキャラ」のような対応をして気にしていないというのです。経験の未熟な大人の調査はそこで終わるのです。自身が傷っいた経験がなくとも、人はどんなことで傷つくかを学習しない教育者は、成長と同じぐらい傷つきやすい世代の「そんなことで」と思う傷と我慢を見つけ出すことはできないのです。そして、いじめとまでは思わなくても、「まずいなー」「いきすぎじゃない」と思った生徒がいても、その疑問を解消する手段も機能も実はないことに初めて気が付くのです。いじめをなくそうというスローガンを掲げても、実は解決する手段としての機能は何もないのです。話し合いなんてやっても上辺だけで底に沈んだいじめを見つけることは出来ないのです。つまり、今の日本には、内部統制機能は働くどころか無いに等しいのですから、せめて通報することで抑止力の一端を担ってもらうしかないと思うのです。それには、内部通報は卑怯ではなく、「諫言」だということを教えていくべきだと思うのです。(諫言、主君に対しても、差し迫ったものについての警告的なアドバイスをすること)

パラリンピックの貧富の差の話

    パラリンピックを否定するつもりはありませんし、参加するために努力している関係者の方を非難するつもりはありません。しかし、パラリンピックの、貧富の差はどんどん開いていることも考えて欲しいと思うのです。今日のスポーツは、どうしても設備や器具、道具が大きな条件となっています。典型的な事例が早く泳げる水着が禁止となったことです。スポーツメーカーは商売ですから、より早く、より高く、より強くを実現する商品の開発に大変な資金をつぎこんでいますから、その資金の回収と利益の確保は当然のこととされています。走者の靴一つにも多大な資金が投入されて開発を争っています。時には、会社が一人の選手に専属の職人として派遣されているなどということも、放送されたりもします。つまり、スポーツは商業化された興業並みになっていますから、設備、器具、道具、監督、技能者、トレーナー等々、多大な資金が必要で、その資金が継続的に集められるチームが結局は強いということになっています。その、スポーツの条件が、パラリンピックにも押し寄せていて、勝利至上主義の中、お金があるところが結局は勝てるところとなってしまっています。

 例えば、最近の広告などでは車いすが5万円もせずに手に入るようになっていますが、車いすバスケットの車いすは、使う選手に合わせて、オーダーメイドでつくるために、1台30万~40万円すると言われています。車いす同士がぶつかり合う、激しい動きを支える消耗品のタイヤは、既製品なのに、左右の2本セットで10万円を超えるというのです。車いす自体の消耗も大きく、一台買えば何年も使用できるなんてことはありません。同様に義足もスタンダードで40万円前後といわれ、機能のよい、空圧や油圧シリンダーの動きをマイコンで制御した、スプリング機能が高い特殊な合金が使われていたりすると、何百万ということも珍しくありません。身体障がいの方が、生活で使用する補装具は、細かい設定条件はありますが一割負担程度でほとんどが公費で賄え、月額上限も4万円以下です。しかし、スポーツ用やレジャー専用の義足などは自治体で基準が違うこともありますが自己負担となります。世界には、まだ日本で認可されていない200万円、300万円以上する高機能な膝継手もあるそうです。車いすマラソンに使用する車いすは、アルミ・チタン・炭素繊維強化プラッチックと最新の素材による開発が進められていて、日本のホンダやドイツのBMWなどの車メーカーが参加していると言う事です。当然この恩恵に得られるのは実は世界では一部の人でしか無いのです。身体障害者にとって補装具は身体の一部でありますが、その補装具には国による貧富の差が著しく繁栄されてしまうのです。日常生活の車いすさえ手に入らず困っている人が現実には多くいる中で、何十万もするスポーツ用の義足や車いすを手に入れられる人は実は世界では限られているのです。パラリンピックというスポーツには、補装具という機具の品質の差が障害以上に大きくなってきていると言えるのです。誰もが同じ道具を使用するのではない障がい者スポーツでは、残念なことに、それぞれのお国や資金提供の差によって道具の性能は著しく違い、その差で勝敗が決まってしまうことも実は多いということなのです。

健康被害の無い薬用石鹸はないの話

   もう何十年も効果があると販売してきた「薬用石鹸」の効果を証明しろと米食品医薬品局がメーカーに突きつけたら、抗菌石鹸の病気予防や感染抑制効果が、普通の石鹸よりも勝ることを実証する証拠を提出できなかったので、19種類の殺菌剤を含有する石鹸などの販売を禁止すると発表したことで日本でも大慌てで対策をはじめました。しかも、殺菌効果を否定しただけで無く、免疫系に悪影響を及ぼすおそれがあるとまで言われました。全部駄目という話では無くて、殺菌効果があるとされていたトリクロサンとトリクロカルバンは駄目だと言う事で、同様の成分を含む商品の確認と使用中止をしようとするですが、実態は、イソプロピルメチルフェノールなど別の殺菌成分に切り替えるだけのことのようです。この化学薬品が駄目なら次の化学薬品に替えるだけで、本当に薬用石鹸て必要なのかという話では無いのです。殺菌作用をうたう商品は、石鹸、ハンドソープ、ボディソープ、歯磨き粉から、防腐剤・抗菌剤・消臭剤、化粧水やクレンジング剤、美容液、フェイスクリーム、日焼け止めといった化粧品類にも添加されています。それにも関わらずその成分が、環境ホルモン作用として、内分泌かく乱作用や筋収縮異常との関連があって、動物実験では肝硬変や肝細胞がんの発症リスクが高まるとまで言われています。歯磨き粉に入っていたり石鹸に入っていれば、体内に取り込まれる可能性は高く、毒と指定されたトリクロサンやトリクロカルバンが尿から出た、母乳から出た、河川などの水質調査でも出たと言われても、もう散々使っちまったよ、どうすれば良いんだと居直るしか私には手段がありません。つまり、人間が作り出した、危険な化学物質を薬用だと言ってみんなで手を洗い、身体を洗いながら、下水を通して自分の身近な自然にばらまいていたという事にもなりますから、これが汚染というなら汚染されていないところの方が少ないぐらいみんなで長年かけて汚染し続けていたことになります。調べると、ヨーロッパでは昨年から販売中止となっていると言うことでした。同様に、化粧品の開発でも「動物実験」しない方法にシフトしていて、欧州では、動物実験をした化粧品の販売は禁じられているとのことです。「美しさのために、動物を犠牲にしてはならない」という消費者の運動を受けて、欧州連合(EU)は2013年、動物実験をした全ての化粧品と原料の販売を禁止したと言います。日本では、資生堂が13年に動物実験の取りやめを表明し、花王やコーセーなど大手メーカーも止めたと言う事で感心する人もいるかも知れませんが、実際は、実験に使用できる人工の皮膚が開発されたと言う事で、モルモットでは4週間で100万円かかった実験が、2日で2万円程度で検査できるというメリットがあったからにすぎません。動物の福祉などと言っても、ウサギやマウスなどを使う動物実験を全く止めたわけでは無く、人工で作れる部位に関しては止めただけで、全身や生殖機能への実験では続いています。ですから今はメリットがあるからそう言っていても、動物実験を繰り返してもカネボウの美白のように実害が出るものが有るのですから、人工製品で実害が出ればいつ動物実験に戻るかは分かりません。

 人間は有史以前から、顔や身体に色々塗り続けてきたのですから、化粧は必要かという論議をするつもりはありませんが、動物実験どころか人体実験までして、化学薬品を信奉するほど作り出す必要があるのかは考える必要があると思うのです。そもそも抗菌石鹸を使用する前に、水道には塩素という殺菌剤が十分入れられていますし、何十年後かには水道水は毒だったなんて事にもなりかねないのです。むしろ、人間の作り出した化学薬品で陸だけで無く、海もどっぷりと汚染されて、アトピーどころか、環境ホルモンの影響による動物全体の異常が現実になることだって考えられるのです。食中毒が発生すると餅つき大会が中止になる時代ですが、ばい菌を殺すだけの方法から、人体の免疫を高める方法へと転換しなければならない時期に来ているのかも知れません。人間が作り出した物には、限界があるのですから、一方的に強い殺菌剤では無くて、自然界とバランスのとれた創造に留めておく必要もあるのではないかと思うのです。

子どものうつ病の診療指針が患者を増やすの話

   日本うつ病学会が7月に「児童思春期のうつ病」を初めてガイドラインに載せました。ここでは、大人のうつ病の診療すら難しい中、子どものうつ病はさらに難しいので、指針が求められていたと言い、児童・思春期に推定5%程度の該当者がいるが適切に診療されているとは限らないと言っています。と言いながらも、指針では、子どもの診断基準は大人と同じで可能とし、何故か米国精神医学会の基準を紹介しています。うつ病学会はうつ病の原因をどう捉えているのか分かりませんが、私などは、精神・心理的要素が大きく、生活・文化環境が大きく影響すると思っていますから、日本の子ども達の環境とアメリカの子ども達の環境は違いすぎて出現する症状の根源も異質なことも多いと思うので、日本基準を検討して貰いたいのですが、何故か米国なのです。つまり、説明される「抑うつ気分」や「興味や喜びの著しい減退」は生活課題で身体的疾病ではありません。結果として「不眠や過眠」などの特徴的な症状の原因追及は、生活の中に求められる場合が多いと思うのです。その為この指針でも、本人や家族の話をよく聞いて、家庭や学校と連携することの重要性を指摘し、診断では、ほかの病気や薬の影響がなく、生活に支障があるかを確認し、成育歴や家庭・学校での状況を医師が把握することが重要としていると言うのです。そして数少ない児童思春期精神科の医師は「家庭内のいさかいや学校でのいじめが影響していることが少なくなく、家族や学校と連携して治療を進めることが欠かせない」とも言っていますから、明らかに心理的・精神的な事象を原点と見ています。ところが、そういいながら、医師の受診をすると、そんなことに時間をかけて調査する医師など皆無で診察室で聞いた症状に、疾病名を付けて向精神薬の処方をするだけなのです。にもかかわらず、発達障害うつ病などの兆候を早く見つけて、必要なら早く医療につなげて症状の悪化を防ぐという考えが、学校現場に浸透してきて、文部科学省も、子どもの異変を見抜くための、教師向けの手引き作成し、地域病院の医師が学校の中に入って教師の相談に乗るというような取り組みまで始まっているのです。

    問題なのは、今学校でも、少しでも平均的で無い、規格外の子どもを疾病・障がいとして医療へ繋げることが必要だとされている風潮です。医師は、話を聞いたり調査したりしても利益となりませんし、医師が診たという周囲の期待感から、診察室だけで疾病名を付け服薬の処方をします。そして、服薬が効かなければ、ますます増量して限界まで処方するのです。その薬の多くが、向精神薬なのです。早期発見の、実態は教育的環境の提供や生活環境の調整のための調査や対応では無く、手っ取り早い服薬の勧めでしか無いのが現実です。教師と言っても新米からベテランという大きな差の中、自分の力量が低い教師ほど、薬を求めるのです。そして確かに一時的には思い通りになりますが、再び平均的で無い行動をして薬だけが増えていくのです。早期発見が、子どもの周囲の環境が整えられて状況が改善するということではなく、不必要な服薬によりその後に深刻な副作用に苦しむということになるケースが増えています。医療に繋げると、向精神薬の中毒患者になって仕舞うという警鐘はずっと出ています。向精神薬は、服薬を決めることは簡単ですが、服薬を止めることが非常に難しい薬です。実際に、興奮を抑える薬を3、4歳で与えていた医師や睡眠障害を抑える向精神薬を、1歳や2歳に処方したという医師まで報告されています。その原因は、医師が大学で診察室を出て患者の生活を観察したり話あったりする方法を学んだ事も無いし、服薬以外で報酬を得る事が出来るようにはなっていないからです。病気で無くとも診察室に入れば、病名と薬がもらえるというシステムに今も健在です。この為、医師の中には、医師向けに子どもの向精神薬の処方の指針作りにしている方もいます。この医師は「向精神薬が成長過程にある子どもの脳に与える長期的な影響については、全く解明されていません。慎重な投与が必要だと思います。」と言い、誰もが、薬だけに頼るのではなく、問題行動の背景に何があるのか考えようと言いますが、現実には子どもを平均的行動が出来ない子、規格内に入れない子を見つけては、大人の都合で、向精神薬の処方へと繋げているのです。教師や医師の勧めるままに、学校に迷惑をかけたくないという親の思いを逆手に、服薬していくと、薬を減らそうとした途端に「離脱症状」と言う向精神薬特有の激しい副作用に苦しめられます。向精神薬は、中毒薬との境が曖昧なぐらい、中毒性が強い薬です。このガイドラインでも薬の使用は慎重にするように求めていますが、実態は早期発見、早期薬漬けが子どもに増えています。子どもの気持ちに寄り添いながら考えることは医師には出来ませんし、そんなことが出来ない学校教育が、向精神薬漬けの子ども達を増やしています。

豚の丸焼きで「命」は考えられないの話

    東京農業大学の学園祭で、7年ぶりに豚の丸焼きが復活したと報道されました。学園祭での豚の丸焼きは50年位の歴史がありましたが、姿形が明瞭で、かわいそうなどの声で中止となっていたのに「命を食べる」という大義名分を作ることで大学を説得し実現したと言うことでした。この企画を長年行ってきたのは、農大の探検部で、「 世界は広い。行こう好奇心のままに。風のふくままに。世界を探検しよう」という活動をしています。つまり、日常的には「命」を考えたり「食物」を考えたりしているわけではありません。それでも、姿形を見たならかわいそうと言いながら、加工された豚肉を食べている人に「自分たちは命のあるものを食べて生きている」という事を考えて貰う機会になると実行したようです。確かに多くの人は豚肉を食べていますが、屠殺から解体までを見ることなどはありません。だから豚の原形から焼いて口に入るまでを見せる手段として「豚の丸焼き」の調理を通じて、「命を食べる」と言う事を考えたいと言い訳するのですが、人気のイベントを復活させたいだけではないかと私は思うのです。それは、「命を頂く」という言い方で誤魔化していますが、実態は「殺す」と言うことにあるからです。死体となった家畜は既に命を奪われて自ら動くことはありません。自ら動いている者を動かなくさせる「殺す」ということによって「命」つまり生命体では無く物体となってしまいます。その物体を如何に見世物としても、同情心はかき立てても「命」を考える事は困難だと思うからです。もし、この企画を実行した学生が、屠畜場を見学することが出来たならそのことが理解出来ると思うのです。

 実際、日本では家畜と言っても自分勝手に屠殺し解体して販売することは出来ませんし、病気で死んだ牛や豚の肉を食べるのは禁じられていますから、生きた動物を殺すことによって食肉は確保されます。屠畜場法により、牛、馬、豚、ヒツジ、ヤギの5種類の家畜はここで屠殺・解体されます。屠畜場は、300カ所強あり公設は約4割で、昔は屠殺場などと言われていましたが、今では「食肉処理場」「食肉センター」などとも言われています。働く人は、大変な負荷を持っていて、食肉を食べられなくなる人も多くいます。屠殺は、過去にはハンマーで鼻の頭を強打する方法でしたが、家畜の悲痛な叫び声や悲鳴のような叫び声が、残酷だということで、電気ショック法を採用するようになり、今では頭蓋骨に1センチほどの穴を銃で開け、牛を失神させ、脳への酸素供給を断つノッキングガンが採用されています。失神させると直ぐさま大動脈が切開され放血することで即死状態となります。これは、安楽殺という動物福祉の観点とも言われていますが、即死させてすぐに血抜きをしないと血が肉の中に残って不良品になったり、家畜が暴れたりすれば危険で商品価値も下がると言う人間の都合の方が大きいと私は思っています。それでも、吹き出す血液は、生きていた体温で大量に出てきますから、辺り一面に血の匂いが広がります。すると家畜といえども、順番待ちさせられている生きている家畜が危険を感じて懸命に厭がったり、鼻にかけたロープを振り切ろうとするなど不穏な行動が見られます。それだけで無く、即死と言っても、心臓や脳の機能が停止しても反射などは残っていますから、両足が震えていたり、歩くような仕草を繰り返す脊髄反射も現れます。剥がされた皮なども、収縮などによりピクピクと動いて見えます。少しの血液を見ただけでも卒倒しかねない最近の若者がみたなら、言葉も出ないほどに、床が赤くなります。日本では、殺人現場の写真もそうですが、穢れや畏れが想像されるような場面は、世間一般の目には触れないようにしている国でもあるのです。死と直面する、血液が流れる場面は誰も見たくないのです。それほど、血に対して感覚が違うのです。ですから、血さえ流れなければ、命が尽きていくことを楽しむという食べ方もします。例えば魚の活き作りと言えば、刺身となった魚の、しっぽがぴくぴくしているのを見て、今絞めたばかりで新鮮だと言いますが、実は水槽に泳いでいた鯛を今殺しましたと言う事でもあるのです。イカやタコが丼の上で動いているのを楽しみますし、エビや貝を生きたまま火にかざして息絶えるのを見て楽しむこともあります。踊り食いなどと言って食べることもあります。しかし、殺すという事が実行される血が流れるような場面は避けられているのです。だから、命を考えるなら血抜きされた豚の死体では難しいと言っているのです。人間は生きるために魚を殺し、動物を殺し、植物の命を断って生きています。そこには、生きたくても生きられない命があり、一人の人間が生きていくために、殺される命が無数にあると言う事ですし、生きたかった無数の命を「殺す」事で成り立っていると言う事です。だから、食べ物を残さないのであり、無駄にしないのであり、捨ててはならないのです。学生は、ほとんど加工されて、すぐにでも食べられるようにされた肉ばかりが出回っていると言いますが、死体となった子豚は既に加工された物なのです。言葉に酔ってはなりません。「命を頂く」などと言うきれい事ではなく「殺す」事によって食肉になるのです。昔の屠殺場は、配水管から出てくる血がどぶを赤黒くし、異様な臭いがして、カラスが群れて、窓ガラスの向こうでは、縛られたり、繋がれたりした家畜が泣き叫んでいる前で、次々とハンマーで殺されていました。命のことは言葉で誤魔化してはならない事なのです。命を頂くとか、命を食べると言うことの前に、生きていたかった命を殺すことで食べるのであり頂くのだと言う事を考えるべきだと思うのです。

命の値段の話

    オブシーボと言う癌の薬を、1年間使用すると一人当たり3500万円程度かかるので、厚労省が特例で半値にさせたという報道がありました。それは、この薬が、高額療養費の対象薬として保険から支払われているので、こんな高額な薬を多くの人に使われたのでは保険が潰れてしまうということからでした。製薬会社としては、開発費プラス利益と次の薬の開発資金を販売薬で回収するとなれば命に関わる薬であってもただの商品として冷徹に計算されて単価を出すのは当たり前の事です。このオブシーボと言う薬は、保険適応に当たっては、悪性黒色腫の皮膚癌患者470人程度で販売した場合で計算されて承認されたのですが、昨年末から肺がんでも使えるようになったことで、想定患者数が30倍以上にもなり、総額が大きくなったことで問題となりました。薬価を決める過程はあまり公となっていないからくりがあるということですが、悪性黒色腫という珍しい皮膚がんの患者にしてみれば、保険適応されたことで、3500万円の薬代が幅はありますが300万円から100万円ぐらいの自己負担で、死なずに済むと言う事ですからこの金額だけで騒がれると迷惑なことと思います。ただこの薬が他の癌にも効くらしいとなって、使用人数が増えたなら、患者の人数で割り戻すべきというのも間違いでも無く、特例で半額にしたと言う事ですが、さらに使用者が増えればもっと安くなるのかは不明です。ここには、3つの課題があります、一つは、新薬の開発は民間の製薬会社が行っているのですから利益が生まれることを前提として、取り組む病気の開発の選択は自由です。ですから、広く多数の人に販売できれば価格は低くなり、少数になれば高くなると言う普通の論理が生まれますが、保険適応という事があれば、少数でも開発費も利益も出すことが出来ると言うことです。二つは、慢性薬と特効薬の違いです。高価でも短期で完治するなら、特効薬を使用することで命を救うことは出来ます。例えば、C型肝炎では、12週間で、546万円掛かりますがでウィルスを撃退できますから保険薬として誰もが良かったと思えます。しかし、慢性的な疾病の薬は、低価格でも服薬し続けなければなりませんから、服薬者が増えれば当然全体としての保険費用は増加します。それでも、その薬によって生命が長らえているなら、命を買っていることと同じです。三つは、保険と薬科の関係が不透明だと言う事です。薬価の見直しは通常、2年に1度ですが、既に儲けた薬の薬価はだんだんに下げるシステムにはなっていません。ジェネリックは、年限がすぎたと言うだけですから、製薬会社としては売れる薬は年限一杯まで稼ぎ頭として維持していくことでは変わりません。そんなことで、政府は使用患者が大幅に増えた高額な薬の価格を、随時引き下げる制度の創設に向けて検討に入ったということです。 

 しかし、免疫治療薬「オプジーボ」は、免疫力を高める薬ですから、1年程度は治療が続きますし、肺がんの場合でも2割程度しか効果が無いのではないかと言う報道もあります。つまり、服薬してみないと効果は分からないし、いつまでなら効果が出て、諦めるのはいつなのかという判断基準もありません。免疫治療薬ですから、再発に不安がある患者さんや他の治療が無くなった患者さんにとってみれば、保険で無くても服薬してみたいと思うのは普通の事だと思うのです。若くして癌で死んだ友人は、「保険承認されていない外国の薬があるけれど1日3万円するのだ俺にはそんな資産は無いし効くか効かないかもわから無いからね」と言って命を買うことが出来ませんでしたが、保険診療ともなれば、誰だって縋る思いで試したくなると思うのです。過去の丸山ワクチンの時も行列を作って購入していた場面を見たことがありますが、誰でもが、命が買えるならその薬が効くのか効かないのかよりもまずは試してみたいと思うと思うのです。その命の公平さに少しでも近づけようとしたのが高額医療費制度でもあると思うのです。実際に、この高額医療制度で治療を続けている患者さんも沢山います。つまり、高額医療制度がなくなれば、死を選択しなければならない人が出ることを考えるなら、維持しなければなりませんが、現実には難しい状況が出て来たことをオプシーボ報道から考える事が出来ると思うのです。人の命に関わる薬が、製薬会社の選択に任され、儲からない病気への開発がされなかったり、エイズの薬が高額で本当に必要なアフリカの人々が買えなかったりが現実にあります。そして開発されても、その薬の値段が命の値段になってしまうこともこれから増えてきそうです。高額医療制度に関わる薬は、開発時に国が買い上げ、薬剤会社に委託製造させる位の対応をしなければ、命の値段がこれからはもっと出てしまうかも知れません。