知ったかぶりの話し

知ってるつもりの思い込みの感覚に、非常識な横やりを入れて覧る試みです

健康被害の無い薬用石鹸はないの話

   もう何十年も効果があると販売してきた「薬用石鹸」の効果を証明しろと米食品医薬品局がメーカーに突きつけたら、抗菌石鹸の病気予防や感染抑制効果が、普通の石鹸よりも勝ることを実証する証拠を提出できなかったので、19種類の殺菌剤を含有する石鹸などの販売を禁止すると発表したことで日本でも大慌てで対策をはじめました。しかも、殺菌効果を否定しただけで無く、免疫系に悪影響を及ぼすおそれがあるとまで言われました。全部駄目という話では無くて、殺菌効果があるとされていたトリクロサンとトリクロカルバンは駄目だと言う事で、同様の成分を含む商品の確認と使用中止をしようとするですが、実態は、イソプロピルメチルフェノールなど別の殺菌成分に切り替えるだけのことのようです。この化学薬品が駄目なら次の化学薬品に替えるだけで、本当に薬用石鹸て必要なのかという話では無いのです。殺菌作用をうたう商品は、石鹸、ハンドソープ、ボディソープ、歯磨き粉から、防腐剤・抗菌剤・消臭剤、化粧水やクレンジング剤、美容液、フェイスクリーム、日焼け止めといった化粧品類にも添加されています。それにも関わらずその成分が、環境ホルモン作用として、内分泌かく乱作用や筋収縮異常との関連があって、動物実験では肝硬変や肝細胞がんの発症リスクが高まるとまで言われています。歯磨き粉に入っていたり石鹸に入っていれば、体内に取り込まれる可能性は高く、毒と指定されたトリクロサンやトリクロカルバンが尿から出た、母乳から出た、河川などの水質調査でも出たと言われても、もう散々使っちまったよ、どうすれば良いんだと居直るしか私には手段がありません。つまり、人間が作り出した、危険な化学物質を薬用だと言ってみんなで手を洗い、身体を洗いながら、下水を通して自分の身近な自然にばらまいていたという事にもなりますから、これが汚染というなら汚染されていないところの方が少ないぐらいみんなで長年かけて汚染し続けていたことになります。調べると、ヨーロッパでは昨年から販売中止となっていると言うことでした。同様に、化粧品の開発でも「動物実験」しない方法にシフトしていて、欧州では、動物実験をした化粧品の販売は禁じられているとのことです。「美しさのために、動物を犠牲にしてはならない」という消費者の運動を受けて、欧州連合(EU)は2013年、動物実験をした全ての化粧品と原料の販売を禁止したと言います。日本では、資生堂が13年に動物実験の取りやめを表明し、花王やコーセーなど大手メーカーも止めたと言う事で感心する人もいるかも知れませんが、実際は、実験に使用できる人工の皮膚が開発されたと言う事で、モルモットでは4週間で100万円かかった実験が、2日で2万円程度で検査できるというメリットがあったからにすぎません。動物の福祉などと言っても、ウサギやマウスなどを使う動物実験を全く止めたわけでは無く、人工で作れる部位に関しては止めただけで、全身や生殖機能への実験では続いています。ですから今はメリットがあるからそう言っていても、動物実験を繰り返してもカネボウの美白のように実害が出るものが有るのですから、人工製品で実害が出ればいつ動物実験に戻るかは分かりません。

 人間は有史以前から、顔や身体に色々塗り続けてきたのですから、化粧は必要かという論議をするつもりはありませんが、動物実験どころか人体実験までして、化学薬品を信奉するほど作り出す必要があるのかは考える必要があると思うのです。そもそも抗菌石鹸を使用する前に、水道には塩素という殺菌剤が十分入れられていますし、何十年後かには水道水は毒だったなんて事にもなりかねないのです。むしろ、人間の作り出した化学薬品で陸だけで無く、海もどっぷりと汚染されて、アトピーどころか、環境ホルモンの影響による動物全体の異常が現実になることだって考えられるのです。食中毒が発生すると餅つき大会が中止になる時代ですが、ばい菌を殺すだけの方法から、人体の免疫を高める方法へと転換しなければならない時期に来ているのかも知れません。人間が作り出した物には、限界があるのですから、一方的に強い殺菌剤では無くて、自然界とバランスのとれた創造に留めておく必要もあるのではないかと思うのです。

子どものうつ病の診療指針が患者を増やすの話

   日本うつ病学会が7月に「児童思春期のうつ病」を初めてガイドラインに載せました。ここでは、大人のうつ病の診療すら難しい中、子どものうつ病はさらに難しいので、指針が求められていたと言い、児童・思春期に推定5%程度の該当者がいるが適切に診療されているとは限らないと言っています。と言いながらも、指針では、子どもの診断基準は大人と同じで可能とし、何故か米国精神医学会の基準を紹介しています。うつ病学会はうつ病の原因をどう捉えているのか分かりませんが、私などは、精神・心理的要素が大きく、生活・文化環境が大きく影響すると思っていますから、日本の子ども達の環境とアメリカの子ども達の環境は違いすぎて出現する症状の根源も異質なことも多いと思うので、日本基準を検討して貰いたいのですが、何故か米国なのです。つまり、説明される「抑うつ気分」や「興味や喜びの著しい減退」は生活課題で身体的疾病ではありません。結果として「不眠や過眠」などの特徴的な症状の原因追及は、生活の中に求められる場合が多いと思うのです。その為この指針でも、本人や家族の話をよく聞いて、家庭や学校と連携することの重要性を指摘し、診断では、ほかの病気や薬の影響がなく、生活に支障があるかを確認し、成育歴や家庭・学校での状況を医師が把握することが重要としていると言うのです。そして数少ない児童思春期精神科の医師は「家庭内のいさかいや学校でのいじめが影響していることが少なくなく、家族や学校と連携して治療を進めることが欠かせない」とも言っていますから、明らかに心理的・精神的な事象を原点と見ています。ところが、そういいながら、医師の受診をすると、そんなことに時間をかけて調査する医師など皆無で診察室で聞いた症状に、疾病名を付けて向精神薬の処方をするだけなのです。にもかかわらず、発達障害うつ病などの兆候を早く見つけて、必要なら早く医療につなげて症状の悪化を防ぐという考えが、学校現場に浸透してきて、文部科学省も、子どもの異変を見抜くための、教師向けの手引き作成し、地域病院の医師が学校の中に入って教師の相談に乗るというような取り組みまで始まっているのです。

    問題なのは、今学校でも、少しでも平均的で無い、規格外の子どもを疾病・障がいとして医療へ繋げることが必要だとされている風潮です。医師は、話を聞いたり調査したりしても利益となりませんし、医師が診たという周囲の期待感から、診察室だけで疾病名を付け服薬の処方をします。そして、服薬が効かなければ、ますます増量して限界まで処方するのです。その薬の多くが、向精神薬なのです。早期発見の、実態は教育的環境の提供や生活環境の調整のための調査や対応では無く、手っ取り早い服薬の勧めでしか無いのが現実です。教師と言っても新米からベテランという大きな差の中、自分の力量が低い教師ほど、薬を求めるのです。そして確かに一時的には思い通りになりますが、再び平均的で無い行動をして薬だけが増えていくのです。早期発見が、子どもの周囲の環境が整えられて状況が改善するということではなく、不必要な服薬によりその後に深刻な副作用に苦しむということになるケースが増えています。医療に繋げると、向精神薬の中毒患者になって仕舞うという警鐘はずっと出ています。向精神薬は、服薬を決めることは簡単ですが、服薬を止めることが非常に難しい薬です。実際に、興奮を抑える薬を3、4歳で与えていた医師や睡眠障害を抑える向精神薬を、1歳や2歳に処方したという医師まで報告されています。その原因は、医師が大学で診察室を出て患者の生活を観察したり話あったりする方法を学んだ事も無いし、服薬以外で報酬を得る事が出来るようにはなっていないからです。病気で無くとも診察室に入れば、病名と薬がもらえるというシステムに今も健在です。この為、医師の中には、医師向けに子どもの向精神薬の処方の指針作りにしている方もいます。この医師は「向精神薬が成長過程にある子どもの脳に与える長期的な影響については、全く解明されていません。慎重な投与が必要だと思います。」と言い、誰もが、薬だけに頼るのではなく、問題行動の背景に何があるのか考えようと言いますが、現実には子どもを平均的行動が出来ない子、規格内に入れない子を見つけては、大人の都合で、向精神薬の処方へと繋げているのです。教師や医師の勧めるままに、学校に迷惑をかけたくないという親の思いを逆手に、服薬していくと、薬を減らそうとした途端に「離脱症状」と言う向精神薬特有の激しい副作用に苦しめられます。向精神薬は、中毒薬との境が曖昧なぐらい、中毒性が強い薬です。このガイドラインでも薬の使用は慎重にするように求めていますが、実態は早期発見、早期薬漬けが子どもに増えています。子どもの気持ちに寄り添いながら考えることは医師には出来ませんし、そんなことが出来ない学校教育が、向精神薬漬けの子ども達を増やしています。

豚の丸焼きで「命」は考えられないの話

    東京農業大学の学園祭で、7年ぶりに豚の丸焼きが復活したと報道されました。学園祭での豚の丸焼きは50年位の歴史がありましたが、姿形が明瞭で、かわいそうなどの声で中止となっていたのに「命を食べる」という大義名分を作ることで大学を説得し実現したと言うことでした。この企画を長年行ってきたのは、農大の探検部で、「 世界は広い。行こう好奇心のままに。風のふくままに。世界を探検しよう」という活動をしています。つまり、日常的には「命」を考えたり「食物」を考えたりしているわけではありません。それでも、姿形を見たならかわいそうと言いながら、加工された豚肉を食べている人に「自分たちは命のあるものを食べて生きている」という事を考えて貰う機会になると実行したようです。確かに多くの人は豚肉を食べていますが、屠殺から解体までを見ることなどはありません。だから豚の原形から焼いて口に入るまでを見せる手段として「豚の丸焼き」の調理を通じて、「命を食べる」と言う事を考えたいと言い訳するのですが、人気のイベントを復活させたいだけではないかと私は思うのです。それは、「命を頂く」という言い方で誤魔化していますが、実態は「殺す」と言うことにあるからです。死体となった家畜は既に命を奪われて自ら動くことはありません。自ら動いている者を動かなくさせる「殺す」ということによって「命」つまり生命体では無く物体となってしまいます。その物体を如何に見世物としても、同情心はかき立てても「命」を考える事は困難だと思うからです。もし、この企画を実行した学生が、屠畜場を見学することが出来たならそのことが理解出来ると思うのです。

 実際、日本では家畜と言っても自分勝手に屠殺し解体して販売することは出来ませんし、病気で死んだ牛や豚の肉を食べるのは禁じられていますから、生きた動物を殺すことによって食肉は確保されます。屠畜場法により、牛、馬、豚、ヒツジ、ヤギの5種類の家畜はここで屠殺・解体されます。屠畜場は、300カ所強あり公設は約4割で、昔は屠殺場などと言われていましたが、今では「食肉処理場」「食肉センター」などとも言われています。働く人は、大変な負荷を持っていて、食肉を食べられなくなる人も多くいます。屠殺は、過去にはハンマーで鼻の頭を強打する方法でしたが、家畜の悲痛な叫び声や悲鳴のような叫び声が、残酷だということで、電気ショック法を採用するようになり、今では頭蓋骨に1センチほどの穴を銃で開け、牛を失神させ、脳への酸素供給を断つノッキングガンが採用されています。失神させると直ぐさま大動脈が切開され放血することで即死状態となります。これは、安楽殺という動物福祉の観点とも言われていますが、即死させてすぐに血抜きをしないと血が肉の中に残って不良品になったり、家畜が暴れたりすれば危険で商品価値も下がると言う人間の都合の方が大きいと私は思っています。それでも、吹き出す血液は、生きていた体温で大量に出てきますから、辺り一面に血の匂いが広がります。すると家畜といえども、順番待ちさせられている生きている家畜が危険を感じて懸命に厭がったり、鼻にかけたロープを振り切ろうとするなど不穏な行動が見られます。それだけで無く、即死と言っても、心臓や脳の機能が停止しても反射などは残っていますから、両足が震えていたり、歩くような仕草を繰り返す脊髄反射も現れます。剥がされた皮なども、収縮などによりピクピクと動いて見えます。少しの血液を見ただけでも卒倒しかねない最近の若者がみたなら、言葉も出ないほどに、床が赤くなります。日本では、殺人現場の写真もそうですが、穢れや畏れが想像されるような場面は、世間一般の目には触れないようにしている国でもあるのです。死と直面する、血液が流れる場面は誰も見たくないのです。それほど、血に対して感覚が違うのです。ですから、血さえ流れなければ、命が尽きていくことを楽しむという食べ方もします。例えば魚の活き作りと言えば、刺身となった魚の、しっぽがぴくぴくしているのを見て、今絞めたばかりで新鮮だと言いますが、実は水槽に泳いでいた鯛を今殺しましたと言う事でもあるのです。イカやタコが丼の上で動いているのを楽しみますし、エビや貝を生きたまま火にかざして息絶えるのを見て楽しむこともあります。踊り食いなどと言って食べることもあります。しかし、殺すという事が実行される血が流れるような場面は避けられているのです。だから、命を考えるなら血抜きされた豚の死体では難しいと言っているのです。人間は生きるために魚を殺し、動物を殺し、植物の命を断って生きています。そこには、生きたくても生きられない命があり、一人の人間が生きていくために、殺される命が無数にあると言う事ですし、生きたかった無数の命を「殺す」事で成り立っていると言う事です。だから、食べ物を残さないのであり、無駄にしないのであり、捨ててはならないのです。学生は、ほとんど加工されて、すぐにでも食べられるようにされた肉ばかりが出回っていると言いますが、死体となった子豚は既に加工された物なのです。言葉に酔ってはなりません。「命を頂く」などと言うきれい事ではなく「殺す」事によって食肉になるのです。昔の屠殺場は、配水管から出てくる血がどぶを赤黒くし、異様な臭いがして、カラスが群れて、窓ガラスの向こうでは、縛られたり、繋がれたりした家畜が泣き叫んでいる前で、次々とハンマーで殺されていました。命のことは言葉で誤魔化してはならない事なのです。命を頂くとか、命を食べると言うことの前に、生きていたかった命を殺すことで食べるのであり頂くのだと言う事を考えるべきだと思うのです。

命の値段の話

    オブシーボと言う癌の薬を、1年間使用すると一人当たり3500万円程度かかるので、厚労省が特例で半値にさせたという報道がありました。それは、この薬が、高額療養費の対象薬として保険から支払われているので、こんな高額な薬を多くの人に使われたのでは保険が潰れてしまうということからでした。製薬会社としては、開発費プラス利益と次の薬の開発資金を販売薬で回収するとなれば命に関わる薬であってもただの商品として冷徹に計算されて単価を出すのは当たり前の事です。このオブシーボと言う薬は、保険適応に当たっては、悪性黒色腫の皮膚癌患者470人程度で販売した場合で計算されて承認されたのですが、昨年末から肺がんでも使えるようになったことで、想定患者数が30倍以上にもなり、総額が大きくなったことで問題となりました。薬価を決める過程はあまり公となっていないからくりがあるということですが、悪性黒色腫という珍しい皮膚がんの患者にしてみれば、保険適応されたことで、3500万円の薬代が幅はありますが300万円から100万円ぐらいの自己負担で、死なずに済むと言う事ですからこの金額だけで騒がれると迷惑なことと思います。ただこの薬が他の癌にも効くらしいとなって、使用人数が増えたなら、患者の人数で割り戻すべきというのも間違いでも無く、特例で半額にしたと言う事ですが、さらに使用者が増えればもっと安くなるのかは不明です。ここには、3つの課題があります、一つは、新薬の開発は民間の製薬会社が行っているのですから利益が生まれることを前提として、取り組む病気の開発の選択は自由です。ですから、広く多数の人に販売できれば価格は低くなり、少数になれば高くなると言う普通の論理が生まれますが、保険適応という事があれば、少数でも開発費も利益も出すことが出来ると言うことです。二つは、慢性薬と特効薬の違いです。高価でも短期で完治するなら、特効薬を使用することで命を救うことは出来ます。例えば、C型肝炎では、12週間で、546万円掛かりますがでウィルスを撃退できますから保険薬として誰もが良かったと思えます。しかし、慢性的な疾病の薬は、低価格でも服薬し続けなければなりませんから、服薬者が増えれば当然全体としての保険費用は増加します。それでも、その薬によって生命が長らえているなら、命を買っていることと同じです。三つは、保険と薬科の関係が不透明だと言う事です。薬価の見直しは通常、2年に1度ですが、既に儲けた薬の薬価はだんだんに下げるシステムにはなっていません。ジェネリックは、年限がすぎたと言うだけですから、製薬会社としては売れる薬は年限一杯まで稼ぎ頭として維持していくことでは変わりません。そんなことで、政府は使用患者が大幅に増えた高額な薬の価格を、随時引き下げる制度の創設に向けて検討に入ったということです。 

 しかし、免疫治療薬「オプジーボ」は、免疫力を高める薬ですから、1年程度は治療が続きますし、肺がんの場合でも2割程度しか効果が無いのではないかと言う報道もあります。つまり、服薬してみないと効果は分からないし、いつまでなら効果が出て、諦めるのはいつなのかという判断基準もありません。免疫治療薬ですから、再発に不安がある患者さんや他の治療が無くなった患者さんにとってみれば、保険で無くても服薬してみたいと思うのは普通の事だと思うのです。若くして癌で死んだ友人は、「保険承認されていない外国の薬があるけれど1日3万円するのだ俺にはそんな資産は無いし効くか効かないかもわから無いからね」と言って命を買うことが出来ませんでしたが、保険診療ともなれば、誰だって縋る思いで試したくなると思うのです。過去の丸山ワクチンの時も行列を作って購入していた場面を見たことがありますが、誰でもが、命が買えるならその薬が効くのか効かないのかよりもまずは試してみたいと思うと思うのです。その命の公平さに少しでも近づけようとしたのが高額医療費制度でもあると思うのです。実際に、この高額医療制度で治療を続けている患者さんも沢山います。つまり、高額医療制度がなくなれば、死を選択しなければならない人が出ることを考えるなら、維持しなければなりませんが、現実には難しい状況が出て来たことをオプシーボ報道から考える事が出来ると思うのです。人の命に関わる薬が、製薬会社の選択に任され、儲からない病気への開発がされなかったり、エイズの薬が高額で本当に必要なアフリカの人々が買えなかったりが現実にあります。そして開発されても、その薬の値段が命の値段になってしまうこともこれから増えてきそうです。高額医療制度に関わる薬は、開発時に国が買い上げ、薬剤会社に委託製造させる位の対応をしなければ、命の値段がこれからはもっと出てしまうかも知れません。

縦割り行政が分かりやすい事例の話

    厚労省は、2005年「次世代育成支援対策推進法」の施行により、労働時間の短縮や子育て支援などに取り組む企業に「くるみん」マークという認定マークを与え自社企業の広告などに働きやすさをアピールしても良いとしています。そして、厚労省は、91年に新任職員の過労自殺死があり係争となって2000年には最高裁判決で敗訴している電通と言う日本の大手広告会社に、この「くるみん」マークの認定をしているのです。電通は、日本で初めて過労死を最高裁が認めたと言う会社ですから、過労死などの責任を認めないで最高裁まで争い続けた会社で自説を曲げない会社です。その結果、13年には30代男性社員の過労死が再び発生しているのです。にもかかわらず、過労死があった13年も「くるみん」マークが認定されているのです。そして、再び、電通の新人女性社員が過労死自殺となり、東京労働局の強制調査が全国の同社に行われましたがそれでも「くるみん」マーク保持企業なのです。労基署は、前年にも労基法違反で行政指導の是正勧告をしていることも明らかになりましたから、これは俗に言うブラック企業じゃ無いのと言う体質ですが、厚労省は、働きやすい職場だと認定していて、この事態になって、認定取り消しと言えず撤回の検討に入ったと行って実態は、電通からの辞退を待っていると言う事なのです。

 厚労省は、電通に対して怒って騙された酷い会社だと自ら撤回すれば良いのですが、撤回となると認定した責任が問われるので、ひたすら電通の方から辞退してくれるように待ちに入ったのです。結果として11月1日に電通より辞退の申し出がでて、厚生労働省は異例の早さで待ってましたと「承認」した上でホームページでも辞退を承認し認定が失効しましたと広報しました。くるみんマークそのものはみんなが余り知らないマークでクイズに出てきたらへぇ-と言ってしまいそうな事なのですが、ことし9月末の時点で全国で2657社が認定されているということです。そんなに働きやすい会社があったのかと驚く数字ですが、厚生労働省はちゃんと調査して認定しているのか誰もが疑いたくなります。それに対して、厚生労働省は「企業の子育て支援の取り組みを促進したい思いでやってきたが、今回の電通の承認失効は残念でならない。真に取り組んでいる企業に対してきちんと認定が出せるような仕組みにしていきたい」とコメントしているように仕組みが元々ちゃんと出来ていないことを認めています。しかも、電通の承認失効は残念でならないと言っていますが、残念の対象は厚労省を信じて電通に就職した人や就職しようとしている人への謝罪では無いのです。国の機関としてのお墨付きが間違っていたというのに、自ら切り捨てることもせず、願い出てきたので承認してやったとまるで時代劇の代官と越後屋のような対応で、庶民には謝罪もせず、間違いも認めないのです。この失敗は、東京労働基準局が、強制調査するというほど、前々から継続した問題あり企業としてマークしていたことを全く共有していなかったと言う事につきます。しかも労働基準監督署というのは、厚生労働省の管轄の組織です。常識的に考えるなら、くるみんを承認するときに、日常的に労働状況を監視している同一組織の労基にちょっと確認してくれないと名簿を渡せば簡単に評価できることだと思うのです。なのに、決して横の関係に書類を回してチェックすることはしないのです。つまり、こんな事が縦割りとして日常的に行われているというのが行政なのです。同じ厚生労働省の中でさえこんな状態ですから、他の省庁間では縄張り争いでとても横の連絡など取れません。その中で、実際、女性社員の自殺が過労による労災と認定され、東京都労働局などは強制調査にも着手し、法令違反を確認したなら行政指導する方針と言いますが、電通は、越後屋以上に、メディアにも大きな影響力を持ち、敵に回せば広告減少という報復をされかねずテレビの報道番組もひっそりと流れたように、厚労省の他の部局から声が掛かれば労働局の刃はさび付いて抜けないなんてことにもなりそうです。「労働時間の短縮」が看板のくるみんで、過労死させる企業を認定して、企業広告に使用させた責任なんて絶対に取らないだけで無く、自分の組織の横の関係が無かったことがチェックミスとなった原因だとも思わないのが縦割り行政なのです。

ノーベル賞も、一発屋じゃないのの話

 ニュートリノの観測でノーベル物理学賞を受賞した小柴さんが賞金を含む4,000万円、個人の寄付6,000万円を基本財産として平成基礎科学財団を設立し基礎科学の振興を目指しましたが、財政難で解散となりました。理由は、地方自治体や個人などからの賛助会費で賄われた運営費は、ノーベル賞の輝きが減ると共に退会者も増え、自治体からの会費も減少して続けることが出来なくなったと言う事です。今年も、ノーベル賞の受賞があり、口々に基礎研究が大事だとの話が出ましたが、ノーベル賞を貰った偉い研究の説明を受けてみると、何千何万という微生物の中の一つの研究だったり、それが何の役にたつのと問われ続けて何十年と言うものだったりしています。つまり、基礎研究という分野は、果てしなくて研究者が研究していると言えば基礎研究で、路傍の雑草に過ぎないと言えばそうなのかとしか思えない事としか思え無いことばかりです。実際大学で研究している学者が、世の中人の為になったと評価される研究はどれほどあるのか分かりませんが、ノーベル賞を取るためには人と違う独創的な研究をしなければなりませんから、どう見ても変人・変わり者と言われるぐらいでないと何十年も地道な基礎研究など出来ないと思うのです。すると、逆に何十年やっても成果効果は無く退官していった学者の方がどう見ても多いと思うのです。大学や研究所に採用されている学者はそれでも生活の保障と研究の保障はありますが、市民で研究している人は、全て自腹で延々と頑張っても光が当たることはまれだと思うのです。通常科学の場合は仮説を立ててそれを証明すると言う事ですが、ファーブルの昆虫記では無いけれど、観察を続けることで発見したり、他の研究中に偶然見つけたりと言う事も聞きます。ノーベル賞を狙おうと韓国は世界一力を入れていますが、その成果は上がっていません。村上春樹さんは今年で11年もノーベル賞だと言われながら受賞には至っていません。科学の世界でも、研究は独創的で無ければなりませんし、何十年研究したって、先に発表されてしまえばそれでおしまいです。世界中の科学者が研究しているのです。しかも、物理学なんてとっくに相当の設備が無ければ出来ない状態になっていて、素粒子の研究ができるのは先進国の巨大な最新鋭の実験装置がなければノーベル賞なんてとても取れない状況とも言われています。そして、さらに世界に通用する論文として書き上げて発表しやなければ、賞まで届かないのです。

 しかも、基礎研究なんて善悪どっちへもなびく事は出来ます。核兵器だって素粒子物理学という基礎研究の上に成り立っています。先日、新聞に「鳥インフル論文、テロ懸念で米誌掲載見合わせ」という記事があって、内容は、強毒性の鳥インフルエンザウイルス「H5N1」に関して生物テロに悪用される危険を理由にサイエンスという研究誌が掲載を見合わせました。でも、研究している人は、純粋に鳥インフルエンザウイルスや、その変異したウイルスが人間にうつることを防ぐ新薬や新しい治療法の研究をしていたのかも知れませんが、生物兵器にもなる可能性があるほど進んだ研究だったと捉えられたのか発表さえ拒否されました。一生懸命やっても、悪に利用されそうな研究と判断されれば、科学雑誌や学会への発表をさせないだけでなく、研究費を絞ってしまうなんてことで制限されることもあります。病気の治療薬になれば、人類や世界にとっての有用な研究成果として賞に結びつくかも知れませんが、兵器のように、忌むべき結果に結実したものはノーベル賞級の研究で終わってしまいます。つまり、基礎研究と言っても人間にとって有利な研究なら、ノーベル賞と一気に評価は上がりますが、人間にとって不利だと判断されると純粋な研究だとしても拒絶されるのです。基礎研究なんて裾野が大きくて結果何十年も研究して何の足しにもならなかったと言う研究も多いと思うのです。研究者は、基礎研究から何が出てくるか、それは誰にも分からないが、基礎研究がないとそもそも何も出てこないと言いますが、その為の研究費はどこから出てくるのかと問う必要はあると思うのです。日本の、基礎科学・芸術等は、主に国からの財政支援に依存していて、欧米諸国のような寄付によって成り立っていないとも言います。でも、寄付こそ成果効果を求めており、なんだか分からない研究に欧米だって寄付が集まっている訳ではないと思うのです。電子の発見によって、何の役に立つのか、発見された時には誰も分からなかったけれど、いまエレクトロニクスがなかったらどうなりますかと言うのですが、スマホやICレコーダーがあるから利用していますが無ければ無くてもいい暮らしがあると思うのです。つまり、基礎研究で、分かったから、便利になったのだから基礎研究が大事だと説明しますが、インターネットも兵器として開発されたように武器の多くが基礎研究の成果でもあるように基礎研究は、善悪どっちにも進める事が出来ることを考えれば、ノーベル賞ほしさに基礎研究こそ大事だとは言えないと思うのです。まして、ノーベル賞の選考内容を聞けば、受賞から漏れた優秀な研究も数多あることからすれば、受賞できたのも一発屋と同じ土俵のような感じがするのです。受賞はめでたいけれど、それは全く芽が出ないけれど努力続けた芸人が突然売れたけれど次のネタが無くて忘れられていく一発屋と同じな気がするのです。受賞の熱が冷めたらもう寄付も集まらなくて潰れていくのですから。

関わりは自負を土台に重ねていけば良いの話

 人が、求めているものは「関わり」だと思っています。関わっていたいと言う思いであり、関わっているという感触だと思っています。ところが、大事な場面やみんなでやることから排除され、あんたは良いから見ていなさいと、関わらなくても良いでは無く、関わるなと言う事ばかりが続くと、関わり方が分からなくなります。出来ないと言うことと、関わるなと言う事は大きく違います。同じ仲間であり家族であるのに、みんなは怒鳴り合うような忙しさの中にありながら、「あんたはやらなくていい」と大事にされているのではなく、棚上げされていることに、気づいて本人なりにどうしたら関われるのかと、様々なチャレンジをするのですが、全て失敗し、最後は出来無いんだからやらなくて言いと断言されてしまう経験を持つと、人は対人関係不安定と言われる人になってしまいます。ですから、対人関係不安定な人を作り出すことは簡単に出来ます。対人関係は、量的接触よりも、質的な接触経験によって個性として形成されます。対人関係不安定な人は、現代ではますます増えてきています。そして、状況によっては、障がいというレッテルが貼られることもしばしば見られます。対人関係不安定な人の対人関係は、関わりが、苦手で生きていくには、誰かに代替的に依存することとなります。その依存心は関わりの失敗を再現するように依存者に向けられ、依存者の負担が多いと、行動障害とまで言われることになります。人との関わりは、経験を積みながら上手下手はありますが、誰でもが変な人、変わった人としてでも、自分の方法を確立していくものですが、環境にその受容力が無ければ対人関係自立は中々大変です。依存性が非常に高くなると自分の不満も高くなり依存者への敵対的攻撃も増えて、結果は、病院での拘束などと言う事になってしまいます。本人は、人と関わりたくて行うことは、周りが困ることばかりで、拘り行動と言われ嫌われます。その結果、関わる人が限定され、さらなる対人関係自立の道は狭くなっていきます。現代のように社会性というルールが曖昧で変化が大きい社会では、応用力よりも適応力が求められますが、対人関係不安定な人ほど人との関わりの適応力が乏しいのです。こうして人との関わりが不得手な人が、障害者や精神的疾病者のようになってきています。

 人は、社会的に何をしているかと言う事ではなくて、この事に自分は関わっている、自分が関係していると言う事に喜びがあると思うのです。そこには評価では無く受容が必要だと思うのです。日本の社会では過去にも対人関係のルールがあってそれなりに機能していました。しかし、今日では、欧米風に自分の意見をきちんと言うことが正しいとされながら、過度の自己主張は駄目、論議をすべきと言いながら相手を非難するのは駄目、断言した言い方は駄目、自分の意見は言ってもみんなの意見に従うなど、欧米と日本風が都合の良いように使用されています。つまり、評価や非難は、力の強い人の考え方に左右されていて、自分の本音や相手が困ることは言うなという日本風の考え方と自分を表現する西洋風の考え方のバランスを純然たる感覚で取ろうとしている状態ではありません。結果として、どうか変わって良いのかわからない人間を多く作り出しています。変化しすぎる、他人の評価に振り回されてしまうことが日常的に多くなっているのです。だから、本人は、頑張っているのですが、他者の評価を気にしすぎて対人不安定となっているのです。だから私は、敢えて「自負」を持つべきだと言っています。自負というのは「自分の才能や仕事について自信を持ち、誇りに思う」ことで、他人の評価を必要としません。自分を誉めて、自分を確立していく過程を大事にして欲しいと思うのです。